( 20## 届)
题 目 漢服と和服から見られる中日の美意識
学 院 外国语学院
专 业 日语
班 级 日语071
学 号 200736655114
学生姓名
指导教师
完成日期 2011. 06.01
教 务 处 制
二〇##年 六月 一日
漢服と和服から見られる中日の美意識
嘉興学院?外国語学院
日本語学部学士論文
学籍番号:
指導教官:
2011.06.01
诚 信 声 明
我声明,所呈交的论文(设计)是本人在老师指导下进行的研究工作及取得的研究成果。据我查证,除了文中特别加以标注和致谢的地方外,论文(设计)中不包含其他人已经发表或撰写过的研究成果,也不包含为获得______或其他教育机构的学位或证书而使用过的材料。我承诺,论文(设计)中的所有内容均真实、可信。
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论文(设计)作者签名: 签名日期: 年 月 日
目 次
摘 要. I
要 旨. II
はじめに. 1
第一章 漢服. 2
1.1 漢服とは. 2
1.2 漢服の起源と発展. 2
1.3 漢服の種類. 3
1.4 漢服の特徴. 4
第二章 和服. 5
2.1 和服とは. 5
2.2 和服の起源と発展. 6
2.3 和服の種類. 7
2.4 和服の特徴. 9
第三章 漢服と和服の比較. 10
3.1 アパレルの構造. 11
3.2 アパレルの色彩. 12
第四章 漢服と和服からみられる中日美意識. 12
おわりに. 15
参考文献. 16
謝 辞. 17
付録. 18
摘 要
服装,是人类的一种重要的文化形态。可谓,自有人类,就有服装。各个国家民族也一定拥有各具特色的服饰。服装作为一种民族文化,直接体现了这个国家和这个民族的精神、价值观和审美等。一般来说,民族的发展必定伴随着服装的发展。
众所周知,中国和日本从很久以前开始就有很深的联系和牵绊。不仅是文化,甚至是很细微的地方都有很多相似。但是,相似中的不同却更能体现两国审美文化的差异。这篇文章便从中日两国的代表服装—汉服、和服出发,试着分析两国的审美差异是如何在服装上体现的。
首先,在序论中,我对为什么要选择服饰,为什么中国和日本的传统服饰是汉服与和服等问题进行了简单的说明。
在第一章中写的是关于汉服的说明介绍。汉服是最能代表中国历史的服装。在这个部分我从汉服的定义、起源和发展、种类、特征等方面对汉服进行了介绍。
第二章是关于和服的说明。和服是日本的传统服装。在第二章中我首先分析了和服、kimono、吴服三者之间微妙的差异,然后从和服的起源和发展,和服的分类、特征等方面出发,简单的介绍了和服。
第三章中,从汉服与和服中选取了最具代表性的女式婚服,通过两者在构造和用色方面的比较,寻求汉服与和服的差异。
第四章,通过汉服与和服的比较,分析了两国的审美差异。在这部分中,从服饰的构造和色彩方面出发,探究了中日两国的审美观。从中体现了中国人积极乐观的性格特征和偏向飘逸、鲜明,具有动感美的审美倾向。反之,日本人则具有简明淡泊的性格,审美则偏向朴素、纯雅与颇具悲怆美的审美文化。
关键词:汉服 和服 审美
要 旨
アパレルは人類文化の中で、一つの重要な表現である。人類の誕生とともに、アパレルも出たといえるだろう。それぞれの国、それぞれの民族は必ずその特有な服飾を持っている。アパレルは民族文化の一つとしてその国とその民族の精神、価値観、審美などを直観的に表す。一般に言うと、アパレルは民族の発展と共に発展する。
周知の通り、中国と日本は昔から深い関わりを持っている。文化だけでなく、細かいところまで類似しているのである。しかし、相似中の不一致は更に両国の審美文化の差が体現できる。
本論では中日両国の典型な服装――漢服と和服から、両国の審美文化がどのように服装の上で体現されたかを考察してみる。
まず、序論では、アパレルを選んだ理由、中国と日本の伝統的な服装が何故漢服と和服か、その原因をあきらかにする。
第一章では中国の歴史を代表する服装である漢服について、漢服の定義、起源と発展、種類、特徴など四つの面から漢服を紹介する。
第二章では、日本の伝統的な服装である和服について、和服と着物、呉服の微妙な違いを説明しながら、和服の起源と発展、和服の種類、特徴などの面から和服を紹介する。
第三章では、漢服と和服の中、両国の審美を最もあらわれる女性用の結婚服を選んで、両方の構造と色彩を比較し、漢服と和服の差異を求める。
第四章では、漢服と和服の比較を通じて、中日両国の審美差異を分析したものである。アパレルの構造と色彩の差異から、中日の美意識を考察している。中国人の積極的で、楽観的な性格と鮮明で動感美という審美傾向が見られる。それに、日本人の素朴で素直な性格と、わびさびを重んじ、かつ純粋で雅やかな審美文化が見られている。
キーワード:漢服 和服 審美意識
はじめに
アパレルについてというものは社会文化の産物であり、社会政治、文化、経済などの総合的な影響を受けて絶えずに変わりつつある。服飾は観念の実体であり、民族文化芸術の一部分でもある。さらにある国の発展と変革を最も直観的に感じさせるものは、おそらく「服飾文化」であろう。
伝統的な服飾といえば、多くの人々は中国における特色のある服装がチャイナドレスと思うかもしれない。だが、チャイナドレスは、満州民族の民族服が元に成っている中国風のドレスである。現在着られているチャイナドレスは中華民国時代に旧来の旗袍のデコレーションを洋服に適用したもので、いわゆる伝統的な民族衣装とは言いがたい。また、チャイナドレスの歴史は約二百年であって、中国の五千年の歴史を代表しかねる。中国は五十六の民族がある。各民族の代表的な服装は異なっている。けれども、中国の人口の97%を占めている漢民族を代表できるアパレルは漢服しかない。
日本の伝統的な服飾は紛れもなく和服である。和服は千年以上の歴史があり、昔でも今でも人気が高い。和服が環境や気候などに適しながら作られた服装なので、そこから日本人の美意識と生活習慣を十分に体現する。
清朝後、満州族の服装を強制し、漢民族の服飾を身につけることを禁止した。そして、満州族の民族衣装に基ついて、改良したチャイナドレスは段々皆に引き受けられた。その故、漢服は次第に消滅させられた。しかし、現在、一部の人は自国の伝統文化の優秀な面に関心を寄せるようになって、伝統的漢服の復興を呼びかけ、率先して漢服を着て普及運動を始めていた。その風潮に乗って、私は、漢服と和服について、研究したくなった。しかし、世間にチャイナドレスと和服についての研究は多い、漢服と和服の比較研究は少ない。
この論文の目的は漢服と和服の比較を通して、両国の異なった審美文化を考察することである。
第一章 漢服
1.1 漢服とは
漢服とは、漢民族の伝統的民族的服飾のことで、また漢装、華服とも言う。主に17世紀中葉以前の漢民族の民族文化を基礎に形成された民族の特徴をもった服装飾体系、すなわち明末清初以前の漢民族が着ていた、漢民族の風格が濃厚で、代々伝えられてきた民族服飾を総称して言う。
1.2 漢服の起源と発展
漢服は世界中最も歴史がある民族アパレルの一つである。《史記》の記載によって、中国の服装は黄帝が作られた。「黄帝の前、服と家屋がない。黄帝が家屋を築き、服を作り、出棺?埋葬を始めた後、万民は存亡の難に避ける。」約五千年前中国の新石器時代、仰韶文化の頃に農業と紡績業が始まった。麻で衣服が作られるようになった。その後、蚕を飼い絹糸を取ることを知るようになり、人々の衣冠服飾も日々整っていった。黄帝時代に冕冠(冠)が現れ、服飾制度が次第に形成されていった。夏殷以降、冠服制度が確立され、西周の時に完成された。周後期、政治、経済、思想文化は急激に変化し、特に百家争鳴で服飾について論議が尽くされ、その影響は諸国の衣冠服飾や風俗習慣にも及んだ。冠服制度は「礼制」に取り入れられ、儀礼の表現形式として中国の衣冠服制度は更に複雑になっていった。
漢民族のこの服飾制度は周から明代に至るまで、三千年来漢人の服装の基本的特徴には大きな変化はない。三百年ばかり前の清初、この服飾制度は崩壊する。清朝の統治者は明との戦争中、漢人の民族としての連帯感を弱めるため、また中国を統一するため、1644年、明朝滅亡後に満州族の髪型と満州族の服装を強制し、漢民族の服飾を身に付けることを禁止した。史上名高い剃髪易服(髪を剃り、服を替える)である。これにより漢服は次第に消滅させられた。今日の旗袍、長衫、馬褂はいずれも満州族の民族衣装を改良し発展させたものである。
辛亥革命で満州貴族の統治を倒した後、人々の思想は西洋化に向かい、西洋風の服装に変わり、漢服の回復はなかった。しかし21世紀初めになり、中国の国力が発展するに従い、人々の目は自国の伝統文化の優秀な面に関心を寄せるようになった。一部の人は、伝統的漢服の復興を呼びかけ、率先して漢服を着て普及運動を始めている。
1.3 漢服の種類
漢服は基本的に裙裳式、深衣式、長衫式、褙子式などに分けられる。
一、裙裳式(付録 図1)
裙裳式の漢服は漢服の源である。その後来た多くの新式の漢服はそれを基ついて発展したのである。裙裳式の漢服は上と下を分かて、上は襟のある上着、下は裳というスカート状の下衣、衣裳はここから出来た言葉である。
構成:白い内衫、腰に及ぶ長い右衽或いは襟のある上着、白いスリップ、膝に及ぶ帷裳、足を被る広いスカート、腰に巻き付ける帯、綬佩帯。
二、深衣式(付録 図2)
深衣の下に組み合わせた物も裳というスカート状の下衣で、ある理解上で裙裳装の一つであるが、上着が長いから、下衣に押し込まなくて、外である。その故、深衣と呼ばれている。深衣は直裾と曲裾二つの種類がある。
構成:膝に及ぶ長い曲裾の上着、足を被る広いスカート、腰に巻き付ける帯。
三、長衫式(付録 図3)
長衫と言うのは右衽式の上着である。ただ、その上着の長さは足に及ぶ。
構成:白い内衫、白いスリップ、足を被る右衽式の上着、腰に巻き付ける帯。
四、褙子式(付録 図4)
褙子、元は長衫である。けれども、褙子より長衫の方はもっと長い、上着は対襟式である。もう一つ、褙子式の漢服は帯を用いらない、快適を目指すためである。
構成:膝に及ぶ対襟式の上着、長ズボン或いは広いスカート。
1.4 漢服の特徴
漢服の主な特徴は、襟があり、襟に続くおくみ(衽)、ボタンを使わず、帯で締めることにある。見るものに、ゆったりとして飄逸な感じを与える。これらの特徴は、他の民族の服装とは明らかに違うものだ。漢服には礼服と普段着の別がある。形の上から見ると、主に上衣下裳(上は襟のある上着、下は裳というスカート状の下衣、衣裳はここから出来た言葉)、深衣(着丈の長い、裾の広がったゆったりした衣服)、褥裙(短い上着とスカート)などの形があった。このうち、上衣下裳に冠をかぶるスタイルは帝王や百官の厳粛で正式な時に着る礼服で、袍服(深衣)は百官、知識人達の普段着、褥裙は女性が好んで着た。一般の下層の人々は上は短い上着、下は長いズボンだった。
第二章 和服
2.1 和服とは
和服とは、日本在来の衣服のこと。狭義の着物と同義。近年では日本における民族服ともされる。和服は狭い意味では着物、呉服とも言うが、微妙な差異がある。
和服は、文字通り「和」の「服」、すなわち日本の衣服という意味である。この言葉は明治時代に、西洋の衣服、すなわち「洋服」に対して日本の衣服を表す語として生まれた。後述するように「着物」という単語は本来衣服一般を意味するため、特に曖昧さを避けたい場面においては「和服」という語がよく用いられる。
着物は、「キるモノ」(着る物)という意味であり、本来は単に「衣服」を意味する語である。実際、洋服が日本で普及する以前は、日本人は衣服一般を「着物」と呼んでいて、着物という言葉に日本文化と西洋文化を区別する意味はなかった。しかし明治時代以降、洋服を着る人が日本で増え始めたため、洋服と区別するために日本在来の衣服を和服と呼ぶようになっていった。現在一般的には、「着物」には二つの意味があり、一つ目の意味は、和服である。「着物」と「和服」と「呉服」が同義語として使われることが多い。二つ目の意味は、衣服である。裸の子どもに「着物を着なさい」というときの「着物」は衣服の意味だと解釈する人がいるが、そうではなく、和服の意味だと解釈する人もいる。「着物を着なさい」の「着物」が衣服と和服のどちらを指すのかは、世代?方言によって違う可能性がある。
呉服の語源は、中国が三国時代のときに呉の織物や着物の縫製方法が日本に伝わったことにあるとされる。元々は絹製品を呉服、綿製品は太物と称し、昔は扱う店も別であった。和服そのものを指す語としては「和服」「着物」に比べ使用頻度は低いが、和服を扱う店は「呉服屋」と呼ばれることが多い。
2.2 和服の起源と発展
和服は日本における伝統的な民族衣装で、記録によると、和服は中国の隋唐時代のアパレルフォームと呉のアパレルを真似て従って作られたものだから、日本人では「呉服」あるいは「唐衣」と呼ばれる。一方で、日本人は「和」の精神を尊敬し、大いに唱えることから、西洋人はまたそれを「和の服」とも呼ぶ。「和服」と言ってもいい。日本語で、「和服」はアパレルの総称でもあり、また特に日本の伝統的な衣装のことをも指す。男の場合は基本的にツーピース型、女の場合は基本的にワンピース型である。
日本は古い時から長い時間で袖をつける「貫頭衣」というものをよく使われたことがある。それは「小袖」と呼ばれ、南方の「身頃」と北方の「筒袖」を組み合わせて作られれたものである。 その袖のルートの下に「身八口」(通気孔)がある。飛鳥時代と奈良時代、古代中国のガウンが呉越の地域から日本へ広がって、日本上流社会のフォーマルな場合において着たオリエント礼服になった。歴史の変遷に従って、和服のスタイルが日本人古来の特有な美意識を融合して、小袖が下着を外装に変えて、袖も短いから長くなり、帯も広くなり、簡潔のようになった。それで段々中国大陸衣装のフレームから切りはなれてきた。室町時代に、裾の長さが膝以下になって、袖も広く長くなった小袖に変えた。それで和服の基本的なフォームが固定された。
だが、明治時代以降、華族や西洋人と接する機会の多かった人々の間では比較的早く洋服が定着した。政府の要人の場合は、洋服を着ることにより、日本が西欧の進んだ科学技術を学び近代化をめざす意欲を西洋の外国人にアピールし、交渉などを有利に進める目的があったといわれている。西洋からの服飾の輸入がなされ、間もなく日本国内でも洋服がつくられるようになった。そして、段々日本国内全民、服装を西洋化していった。更に、1923年の関東大震災では、身体の動作を妨げる構造である和服を着用していた女性の被害が多かったことから、翌1924年に「東京婦人子供服組合」が発足し、女性の服装にも西洋化が進むことになった。
現在日本人は、日常ほとんど洋服を着て生活しているが、正月、成人式、大学卒業パーテイー、結婚式、披露宴、葬儀などの重要な場合に、一般の女性が和服を着る。
2.3 和服の種類
現在の和服には、大人の女性用、大人の男性用、子供用がある。男性用と女性用の和服のそれぞれに、正装、普段着、その間の服がある。
2.3.1女性用の和服
現在の女性用の正装の和服には、黒留袖、色留袖、振袖、訪問着、喪服などがある。これら正装用の着物は原則的に結婚式、叙勲などの儀式、茶会など格の高い席やおめでたい儀式で着用される。留袖には、黒留袖と色留袖がある。黒留袖は地色が黒で染められているもので、色留袖は黒以外のものが地色のものを言う。黒、色共に原則として既婚女性用の第一礼装であるが、最近では色留袖が未婚の女性に着用されることも多くなった。
(1)黒留袖 (付録 図5)
既婚女性の正装。生地は地模様の無い縮緬が黒い地色で染められており、背、後ろ袖、前胸に5つの紋(染め抜き日向紋)がある、柄付けは腰よりも下の位置にのみ置かれている。
(2)色留袖 (付録 図6)
既婚女性の正装。上にも述べたが黒以外の地色で染められたものを指す。生地も縮緬だけではなく、同じ縮緬でも地模様を織り出したものや綸子を用いることもある。黒留袖は五つ紋であるが、色留袖の場合五つ紋だけではなく三つ紋や一つ紋の場合もある。宮中行事では黒が?喪の色」とされており黒留袖は着用しない慣例になっているため、叙勲その他の行事で宮中に参内する場合、色留袖が正式とされている。黒留袖は民間の正装とされている。
(3)振袖 (付録 図7)
主に未婚女性用の絵羽模様[①]がある正装である。正式には五つ紋をつけるが、現在ではほとんど紋を入れることはない。袖の長さにより、大振袖、中振袖、小振袖があり、花嫁の衣装などに見られる袖丈の長いものは大振袖である。近年の成人式などで着用される振袖は、中振袖となっている場合が多い。絵羽模様に限らず小紋や無地で表された振袖も多い。
(4)訪問着 (付録 図8)
女性用(未婚、既婚の区別なし)の絵羽模様がある礼装である。紋を入れる場合もある。生地は縮緬や綸子?朱子地などが用いられることが多いが、紬地で作られたもののある。その場合紬はあくまでも普段着であるため、訪問着であっても正式な席には着用できない。
(5)喪服 (付録 図9)
五つ紋付き黒無地。関東では羽二重、関西では一越縮緬を使用することが多い。略喪服と言って、鼠や茶、紺などの地味な地色に黒帯を合わせる喪服もある。略喪服(色喪服)は参列者及び遠縁者など血縁の近さ遠さによって黒喪服を着るのが重い場合や、年回忌の折に着用する(通常は三回忌以降は略喪服を着ることが多い)。
(6)付け下げ
訪問着を簡略化したものであらかじめ切って裁断された上に柄を置く絵羽模様ではなく、予定の場所に前もって想定し柄が置かれた反物の状態で売られているもので、縫うと訪問着のような位置に柄が置かれるものである。一見訪問着と見まがうものもあるが、訪問着との大きな違いは柄の大きさや縫い目での繋がりの他、八掛(裾回し)が表地と同じもの(共裾)ではなく、表との配色が良い別生地を用いている点である。略式礼装に当たるため儀式などの重い席には着用されることが少ないが、趣味性の強い柄付けや軽い柄付けの訪問着より古典柄の付け下げの方が格が上とされる。一般的な付け下げは儀式ではないパーティーなどで着用されることが多い。
2.3.2男性用の和服
男性用の正装の和服には、五つ紋付、黒の羽二重地、アンサンブル、縦縞の仙台平などがある。紋が付いた服(紋付)を着用する場合、足袋の色は白にする。草履を履くときは畳表のものを履く。履物の鼻緒の色は、慶事のときは白、弔事のときは黒にする。小物の色も同様に、慶事のときは白、弔事のときは黒にする。正装の度合いについては羽二重、お召、無地紬の順で格が下がる。羽織を着るべき場面か、着なくてもいい場面かの判断は、洋服の背広やジャケットの場合に類似する。なお、茶会では羽織は着用しない。 また、紋の数や種類によっても挌が決まるので正式な黒紋付として黒羽二重に紋を付けるときは、日向紋を5つ付ける。無地お召や紬などにも紋を付けるが、この地で五つ紋をつけて正装として着ることはしないので、現在ではこの地の場合は染め抜きではなく陰紋として刺繍などで付けることが多く、その数も三つ紋か一つ紋になることが多い。
正式な場所での男性の正装の着用には必ず袴を着用する。男性の袴は「馬乗り袴」と言って洋服のズボンのように左右に脚が分かれているものが正式であるが、女性の袴と同じように分かれていないスカート状の「行燈袴」もある。厳密には袴にも夏用と冬用の区別はあるが、着物の袷のように裏を全体に付けることはないので地の薄さと密度によって区別されている。現在ではあまりこの別を意識することはなくなっている。(付録 図10)
2.4 和服の特徴
和服は、腰の位置で帯を結ぶことによって長着を体に固定させる。腕の太さよりもずっと広い袖を持つ。長着や羽織では、袖のうち一部を縫ってあり、これにより袖口は袖丈よりも短くなり、袖に袋状の袂ができる。洋服ではボタンや締め金を使って服の一部を固定するが、和服では帯や紐などで結ぶことによって固定する。和服に洋服のような開襟はない。
和服の布地は、あまり伸び縮みしない。帯の材質は布である。帯に皮革が使われることはない。
和服を反物から制作する作業において、反物を切る線のほとんどが直線であり、布の端と平行か直角に切られる。一方洋服を作るために布を切るときは、曲線をたくさん使い、和服よりも複雑な形状な布の部品を作る。和服と洋服では、服を作るために布を裁断した後に発生する、使わずに余った布の量と形に、違いがあらわれる。和服を作るために布を切った後、使わない布として余るのは、反物の端の長方形の部分を除けばごくわずかである。また、残った反物の端は長方形なので、別の目的に利用しやすい。洋服を作るために布を切った後に余る不要な布は、長方形でない布が多く、別の目的に利用しにくい。
和服が伝統的な裁縫の方法により作られた場合は、縫いつけた糸を和服から後で取り除いて分解することを前提にして和服が作られる。切れやすい糸を使って和服を縫うことにより、縫った糸が布を引っ張って布を損傷する危険を減らす。切れやすい糸を使うことにより、和服を構成する各部の布を長持ちさせることができるが、衣服が身体を保護する力が低くなる欠点がある。
第三章 漢服と和服の比較
なぜ異なった国のアパレルの特徴がさまざまになっているというのは、ある意味から言えば、それがすべての民族と文化の違いから生じたものだと考えられる。もし各国のアパレルに含まれた美意識の意味を文化的に言えば、二つのレベルに分けられる。一つは浅い面の文化構造であり、もう一つは深い面の文化構造である。浅い面の文化というのはアパレルの構造、色彩、図画、素材、技術などを含め、言え換えれば、シンボル関数関係の可視性の機能を持つ明らかな文化のことを指す。その一方、隠れた民族文化傾向、価値観、美意識観などは深い面の文化に属して、隠れた文化とも呼ばれる[②]。漢服と和服の外部のバターンから両国の文化の類似点と相違点が見られる。
だが、漢服と和服はそれぞれの形に分かれ、種類も確か多いである。比較の便利と明らかのために、漢服と和服の中、両国の審美傾向が最も代表できる女性用の結婚服(付録 図11)を選ぶ。
世界中、どの国、誰でも、結婚は人生中最も重要な事である。それでは、結婚用の服装は当時の審美傾向を代表する。そう言えるだろう。
3.1 アパレルの構造
全体的に言うと、和服展開の輪郭はストレートで、四角形である。でも、漢服の裁断は曲線がある。一部一部に言えば、漢服の襟と袖に縁と言うものがあり、縁の布地と色彩は常に衣服の主体と違う。一面、和服には縁と言うものがない。それに、和服の帯は漢服よりずっと広くて厚い。しかも、和服の帯は後ろに結ぶ、でも、漢服の帯は前に結ぶ。これは多分帯の動きが違うからだと思う。漢服は細い腰を持っている綺麗な女子の体形を現すために帯で布を束ねるから、薄いほどもっといい。それに対して、和服の帯は服の形を整えるために使われるから、広くて厚ければ厚いほど固定性がいい。そして、そんなに広くて厚い帯を前に結ぶなら醜いから、後ろにすると言われている。もう一つは袖の形である。二つの袖とも広袖だけど、漢服の袖はわき下から袖口まですこしずつ広くなる。線が柔らかいという感じがする。和服の袖は前半より後半の方が広い。つまり、真ん中で急に広くなるナイフみたいで、線が硬く見える。布地が原因だと思う。漢服の布地は体形によって勝手に裁断できる。和服の布地が直線に従ってしか裁断できないから、線が硬く見える。あと一つは両者の裾の違いである。漢服と和服の裾の形は逆である。和服のは逆様になった「八」のように腿の形に従って狭くなる。逆に、漢服のは「八」のように広くなる。
一言に言えば、視覚の上で漢服も和服も大変綺麗だ。ただ、人に伝えた美しさは違うと思う。女子の体形によって作られた漢服は柔らかで、人の動きによって自然に変われるから、女子の曲線美が出てくる。特に、風が吹いている時、何だが服は流れているような感じがする。和服の布地が直線に裁断されるし、体形にぴったりするのができない、そして、硬い布地で和服の形はあまり変わらない、着る時もぴんと綺麗にうる要求があるようだ。そのため、和服は人に静態美を与える、それも日本人の「侘び寂び」という美意識に合っていると思う。
3.2 アパレルの色彩
色彩の採用と言えば、漢服は「鮮明」という特徴がいる。色相は単一で、目立っている。色彩の形式は鮮やかで明快である。全体赤色の基礎で、金色と黒を飾って、朗らかな気持ちを表現する。けれども、和服は真っ白である。和服の結婚服は「白無垢」と言うが、字面と見れば、純白で、完全無欠である。これは、日本人が新婦に要求することである。それに、白色は純粋、荘重、優雅な気分を体現して、日本人の静態な審美観を表す。
第四章 漢服と和服からみられる中日美意識
漢服と和服の構造から見れば、和服は漢服の影響を受けているけれども、歴史の発展と共に、日本自国の民族性と文化の影響の下で、日本の服装も変化していた。日本特色を含んだ和服に発展した。
平安時代は天皇が権利を握った時代だったので、それに日本は比較的に単一民族の国家なので、服装が統一できた。その故、持続的な蓄積を経て、華麗な貴族服飾を形成した。「源氏物語」でおなじみの日本の服装の中でも一番美しく複雑な時代となった。十二単[③]はまさにあの時上流階級の女性の晴れ装束である。
しかし平安時代の中期に菅原道真により遣唐使が廃止されると、しだいに日本独自の服装に変わっていった。男子は朝服から束帯へ、女子は唐衣裳装束や女房装束といわれる晴装束を公家などが着用していた。
束帯、唐衣裳装束ともに袖部分は袖口の下を縫わない「大袖(おおそで)」を用い、これは現在の産着や長襦袢などに用いられる袖の形のひとつで、現在和服用語では広袖ともいわれる。特に女性の唐衣裳装束の下に着用した下着を白小袖[④]と呼んだ。
鎌倉、室町時代に入った後、武士階級勢力が増し、政治の実権を握った時代だったこともあり、やがて戦闘などの目的に応じた実用的な服装へと変っていった。それに、和服の広い帯と結びの発展も当時の政治環境と深い関係がある。貴族の没落、幕府の創立、絶えずの戦乱などのせいで、庶民はあちこちに流離していて、荷物は身につける物になった。月日の経つうちに、段々政局は安定した、それも純粋な装飾物になった。
もちろん、政治以外、風俗文化と審美傾向も服装に影響を与える。平安時代に、女性の和服は非常に歩きにくい、服は一層一層に重なり合って、体積もとても巨大である。これは日本の地面に座る習慣に関連がある。当時、中国唐代はすでに椅子文化が発達した、そのため、こんな拡張した服装はない。日本は太平洋地震帯に属し、主に木質構造の家屋を利用する。その故、日本には高い家屋は少ない、低い天井だから、椅子は余計になった。それに、平安時代は立つ礼儀を座る礼儀に発展する時期だが、服装もこの変化に順応した。元禄時代に入った後、座布団文化と相まって、和服の姿は座る安くになった。次第に、裾は狭くて真っ直ぐになった。審美上は、飛鳥時代から、日本は唐にいろいろな習わしを学び始めた。当時、唐代の詩人は梅花を観賞しながら詩を作るのが好きで、日本にも流行し始めた。だんだん梅花を桜に変わって、けれども、桜は様々な種類があり、中で、八重桜のような複瓣な花は人気がある。平安時期、花見しながら詩を作る時は、常に、女子の美しさを桜で比喩する。そして、そういう審美観が日本の和服を育成したかもしれない。
アパレルの構造は一つ、アパレルの色彩の差異も両国の審美が体現できる。
『中国民間の禁忌』という本の中でかつてアパレルの色を四つに分けられる。つまり高い色はやめる、安い色はやめる、凶悪な色はやめる、鮮やかな色はやめると書いてある。『礼記』によれば、天子のアパレルの色は季節によって違う。季節の陰陽の五行をもとに、青色、赤色、黄色、白色、ブラックの五色に分ける。唐太宗が貞観4年に百官の朝服の色を次のように決めた。「紫」を「朱」の前に置き、3品以上の官員の官服を紫にし、4品と5品の官員は赤にし、6品官員はダークグリーンにし、7品官員は浅いグリーンにし、8品官員は深く青色にし、9品官員は浅い青色にする。
日本の歴史上の色の禁忌と中国の伝統とある程度でかかわりがあるといえよう。605年に聖徳太子が「冠位十二階」を発布した。上から下まで「德」が紫であって、「仁」が青色であって、「礼」が赤色であって、「信」が黄色であって、「義」が白色であって、「智」がブラックである。この6種類の色は冠の位に関連すると、またそれぞれ2種類に細分して、あわせて12階段になった。
中国は赤色を尊ぶ、よく見える深紅の漢服は色が煌びやかで美しくて人目を引くことができる。デザインは奇抜で、十分に民族の悠久の歴史文化がいっぱい現れ出て、重点的に東方の女性の含蓄で優雅な魅力を体現している。中国人は重んじるのが生活を盛んになって、お祝いしている日、身なりも盛んなことを求める。赤色に対して特別な崇拝を持っていて、昔の先進的な人物を表彰する掲示から、赤い飾りつけた輿、赤い蝋燭、新婦の使う赤い絹のベール、今のところの赤い下着、赤色の福の人形まで、一面の赤い光はあまねく照らす。今のところ、赤色はお祝い、成功、正義のシンボルだと見なすだけではなくて、情熱、明るく広々としている健康な性格をも表現している。
しかし、時代の移り変わりに従って、漢服の用色も豊富で、全面になった。漢服の色彩は中国の歴史と共に発展してきた。その色の豊富さは世界中どの民族でも及びもつかないかもしれない。
和服は色の上にとても重んじることがある。和服の中で最も気高い色は紫色だが、しかし普通は、日本人はもっと愛顧のは自然な色、あがめ尊ぶのは簡素な色である。例えば、日本人の白色が好きで、「雪、月、花」の自然の景観から源を発して、雪は白色で、月は白色で、花は日本人の色が経験する中でも白色を最も美しいことに感じる。それに日本人は青色が好き、青色が日本のこれによって生存する山野と湖などの自然環境の色のためである。日本人は自然な色に対して、特に四季の色の変化と植物の世界の色の変化に、きわめてきめ細かい感銘を持っている。この種類の自然な色の審美の情趣、日本人の簡明で淡泊な性格の形成した素朴であっさりして純雅な審美の意識から源を発する。
総じて言えば、色彩の方面で、漢服は「鮮明」の特徴を持って、赤い黄金などの暖色を偏愛して、積極的に楽観的に向上するのを表現して、堂々たる大国の気迫がある。それに比べて見て、日本人は悲愴で、苦難で、不完全で、死亡のこのような自然性の信念に対して一種の過激な心から愛することがあって、この種類の悲愴な審美の傾向は日本の審美の文化の主体になる。
おわりに
アパレルは文化の産物で、また文化のキャリヤーで、その上すべてのアパレルは皆人類の物質と精神の創造との集まりで、つまり文化のすべての特徴をアパレルに体現している。だから、アパレル文化は歴史の文化の結晶の一つでもあり、文化が外面に現れた印でもあると考えられる。アパレルは物質的な文化と精神的な文化の二重の性格を持っている上に、その複雑性はまたアパレルが物質的な文化としてその中に精神的な文化の内包が含まれる一方で、精神的な文化としてその中がまた物質的な文化の内容に関連して、それらは互いに依存して、相互に浸透するところにあると思う。アパレルの特有な文化の内容そのものがアパレルの生命力である。
参考文献
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謝 辞
付 録
図 1
図 2
図 3
図 4
図 5 図 6 図 7
図 8 図 9 図10 図 11
①絵羽模様(えばもよう)とは小さなパターンが繰り返し染められている反復された模様ではなく、和服全体をキャンバスに見立てて絵を描いたような模様のことであり、脇や衽と前身頃の縫い目、背縫いなどの縫い目の所で模様が繋がるようにあらかじめ染められている。
②刘琳,《从三宅一生的创作看中日服装审美文化的差异》,《中国纺织》20##年9期
③襲衣(かさねぎ)するところからついた名称で、「唐衣裳装束」「女房装束」の俗称である。
④:小袖とは礼服(らいふく)の大袖の下に着た下着、盤領(あげくび)筒袖の衣をいい、現在の和服、着物の原型といわれている。