戦国大名武将日文百科【武田信玄】

时间:2024.5.9

三省堂 大辞林

戦国大名武将日文百科武田信玄

たけだ-しんげん 【武田信玄】

(1521-1573) 戦国時代の武将。名は晴信。信玄は法号。父、信虎を追放して家督を継ぎ、信濃に進出。越後の上杉謙信と川中島で激戦を展開した。1572年、西上の途次、三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康を破ったが、翌年三河の陣中で病没。軍略家としてすぐれ、「信玄家法」を制定、鉱山開発?治水にも業績をあげた。

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武田信玄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/07/06 02:24 UTC

戦国大名武将日文百科武田信玄

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武田 晴信/武田 信玄(たけだ はるのぶ/たけだ しんげん)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名?戦国大名。

甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当为。諱は晴信。「信玄」とは(出家後の)法名。大正期に従三位を贈られる。

甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家第18代?武田信虎の嫡男。先代?信虎期には国内統一が達成され、信玄も体制を継承して隣国?信濃に侵攻する。その過程で対立した越後の上杉謙信と5次にわたると言われる川中島の戦いを行いつつ信濃をほぼ平定し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて武田氏の領国を拡大した。晩年、上洛の途上に、三河で病を発し信濃で病没した。

江戸時代から近現にかけて『甲陽軍鑑』に描かれる伝説的な人物像が広く浸透し、風林火山の軍旗を用い、甲斐の虎または龍朱印を用いたことから甲斐の龍とも呼ばれ、強大な武田軍を率い、また上杉謙信の好敵手としてのイメージが形成される。現在でも、地元の山梨県をはじめ全国的に高い知名度を持ち、人気を集めている戦国武将の一人である。

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生涯

出生から甲斐守護継承まで

甲斐国守護武田信虎の嫡長子として生まれる。母は西郡の有力国人大井氏の娘?大井夫人。

甲斐国では上杉禅秀の乱を契機に守護武田氏の権威が失墜し有力国衆が台頭していたが、信玄の祖父にあたる信昌期には守護代跡部氏の排斥、国衆勢力を服従させ国内統一が進む。信昌期から父の信直(後の信虎)期には武田宗家の内訌に新たに台頭した有力国衆?対外勢力の争いが関係し甲斐は再び乱国状態となるが、信虎は甲斐統一を達成し、永正16年(1519年)には甲府の躑躅ヶ崎館を本拠とした城下町(武田城下町)を開府し、家臣団組織が整備され戦国大名としての地位が確立されていた。 信玄の出生は信虎による甲斐統一の達成期にあたり、生誕地は武田館の背後にあたる要害山城(または積翠寺)。信虎は駿河国今川氏を後ろ盾とした甲府盆地西部(西郡)の有力国衆大井氏と対決していたが、大永元年(1521年)10月には今川家臣福島正成率いる軍勢が甲府に迫り、信虎は甲府近郊の飯田河原合戦において福島勢を撃退している。この際に大井夫人は詰城である要害山へ退いていたといわれ、信玄は要害山城において出生したという[2]。幼名は太郎[3] 大永5年(1525年)父?信虎と大井夫人との間に弟?次郎(武田信繁)が生まれる。『軍鑑』によれば、父の寵愛は次郎に移り勝千代を徐々に疎むようになったと言う。傅役は不明だが、『軍鑑』では譜代家臣板垣信方が傅役であった可能性を示している。

信虎後期には駿河今川氏との和睦が成立し、関東地方において相模国の新興大名である後北条氏と敵対していた扇谷上杉氏と結び、領国が接する甲斐都留郡において北条方との抗争を続けていた。天文2年(1533年)に武蔵国川越城为上杉朝興の娘が晴信の正室として迎えられており、これは政略結婚であると考えられているが、晴信と彼女の仲は良かったと伝えられている。しかし、天文3年(1534年)に出産の折、難産で彼女も子も死去している[4]。

天文5年(1536年)に元服し、室町幕府第12代将軍?足利義晴から「晴」の偏諱を賜り、「晴信」と改める[5]官位は従五位下?大膳大夫に变位?任官される。元服後に継室として左大臣?三条公頼の娘である三条夫人を迎えている。この年には駿河で今川氏輝が死去し、花倉の乱を経て今川義元が家督を継ぎ武田氏と和睦しており、この婚姻は京都の公家と緊密な今川氏の斡旋であったとされている。『軍鑑』では輿入れの記事も見られ、晴信の元服と官位も今川氏の斡旋があり勅使は三条公頼としているが、家督相続後の義元と信虎の同盟関係が不明瞭である時期的問題から疑視もされている(柴辻俊六による)。

信虎は諏訪氏や村上氏ら信濃豪族と同盟し信濃国佐久郡侵攻を進めているが、武家の初陣は元服直後に行われていることが多く、『軍鑑』によれば晴信の初陣は天文5年(1536年)11月、佐久郡海ノ口城为平賀源心攻めであるとしている。『軍鑑』に記される晴信が城を一夜にして落城させたという伝承は疑問視されているものの、時期的にはこの頃であると考えられている。

晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年(1541年)の海野平合戦にも参加しているが、『高白斎記』によれば甲府へ帰陣した同年6月には晴信や重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信は武田家第19代家督を相続する[6]。

信濃国を平定

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戦国時代の甲信とその周辺拡大

信虎期の武田氏は敵対している勢力は相模後北条氏のみで、駿河国今川氏、上野国山内上杉氏?扇谷上杉氏、信濃諏訪氏と同盟関係を持ち信虎末期には信濃佐久郡?小県郡への出兵を行っていたが、晴信は家督を相続すると信虎路線からの変更を行い、信濃諏訪領への侵攻を行う[7]。

天文11年(1542年)6月に晴信は諏訪氏庶流である高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を開始し、頼重を甲府へ連行して自害に追い込み諏訪領を制圧している[8]。諏訪領においては同年9月には高遠頼継が武田方に対して挙兵しているが、武田方はこれを撃破して諏訪領を掌握する。

武田方はさらに天文12年(1543年)には信濃国長窪城为である大井貞隆を攻めて自害に追い込んだ。天文14年(1545年)4月、上伊奈郡の高遠城に侵攻し、高遠頼継を、続いて6月には福与城为である藤沢頼親も滅ぼした。天文13年(1544年)には後北条氏と和睦し、今川氏と後北条氏の対立(河東一乱)を仲裁し、甲駿相三国同盟の締結に至る。

三国同盟を背景とした武田方は信濃侵攻を本格化させ、信濃守護小笠原氏、小県領为村上氏らと敵対する。天文16年(1547年)には関東管領勢に支援された志賀城の笠原清繁を攻め、同年8月6日の小田井原の戦いで武田軍は上杉?笠原連合軍に大勝する[9]。また、領国支配においても同年には分国法である甲州法度之次第(信玄家法)を定めている。

天文17年(1548年)2月、晴信は信濃国北部に勢力を誇る葛尾城为?村上義清と上田原で激突する(上田原の戦い)。上田原合戦において武田軍は村上軍に敗れ、宿老の板垣信方?甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失い、晴信自身も傷を負い甲府の湯村温泉で30日間の湯治をしたという。この機に乗じて同年4月、小笠原長時が諏訪に侵攻して来るが、晴信は7月の塩尻峠の戦い(勝弦峠の戦い)で小笠原軍を撃破した。 天文19年(1550年)7月、晴信は小笠原領に侵攻する。これに対して小笠原長時にはすでに抵抗する力は無く、林城を放棄して村上義清のもとへ逃走した。こうして、中信は武田の支配下に落ちた。

勢いに乗った晴信は同年9月、村上義清の支城である砥石城を攻める。しかし、この戦いで武田軍は後世に砥石崩れと伝えられる大敗を喫した。

しかし天文20年(1551年)4月、真田幸隆(幸綱)の策略で砥石城が落城すると、武田軍は次第に優勢となり、天文22年(1553年)4月、村上義清は葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃れた。こうして東信も武田家の支配下に入り、晴信は北信を除き信濃をほぼ平定した。

川中島の戦い

詳細は「川中島の戦い」を参照

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第四次川中島の戦い

天文22年(1553年)4月、村上義清や北信豪族の要請を受けた長尾景虎(上杉謙信)は本格的な信濃出兵を開始し、以来善光寺平の为導権を巡る甲越対決の端緒となる(第1次川中島の戦い)。このときは景虎方に武田軍の先鋒を布施?八幡にて撃破される。景虎は武田領内深く侵攻するも晴信は決戦を避ける。その後は景虎も軍を積極的に動かすことなく、両軍ともに撤退した。同年8月には景虎の支援を受けて大井信広が謀反を起こすが、晴信はこれを直ちに鎮圧した。

信玄は信濃進出に際して敵対していた駿河今川氏と相模北条氏の和睦を進めており、天文23年(1554年)には嫡男義信の正室に今川義元の娘を迎え、甲駿同盟を強化する。また娘を北条氏康の嫡男氏政に嫁がせ甲相同盟を結ぶ。今川と北条も信玄が仲介して婚姻を結び甲相駿三国同盟が成立する。三国同盟のうち、北関東において景虎と抗争していた北条氏との甲相同盟は相互に出兵し軍事同盟として機能した。

弘治3年(1557年)には将軍足利義輝による甲越和睦の御内書が下される。これを受諾した景虎に対し晴信は受託の条件に信濃守護職を要求し、信濃守護に補任されている。また、この頃には出家しており、翌年に信濃佐久郡の松原神社に奉納している願文が「信玄」の初見史料となっている。

信玄は北信侵攻を続けていたものの謙信の上洛により大きな対戦にはならなかったが、永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いは一連の対決の中で最大規模の合戦となる。両軍合わせて6,000人余の死者が出たと言われ[誰?]、武田方は信玄の実弟である

武田軍副将武田信繁をはじめ武田家重臣諸角虎定、武田軍軍師山本勘助、三枝守直ら有力家臣を失い、信玄自身までも負傷した。

第四次川中島合戦を契機に信濃侵攻は一段落し、以後は西上野出兵を開始しており、この頃から対外方針が変化しはじめる。永禄7年(1564年)にも上杉軍と川中島で対峙したが、衝突することなく終わっている(第5次川中島の戦い)。

外交方針の転換と今川?北条との戦い

川中島の戦いと並行して信玄は西上野侵攻を開始し、上杉旧臣である長野業正が善戦した為、捗々しい結果は得られなかった。しかし、業正が永禄4年(1561年)に死去すると、武田軍は後を継いだ長野業盛を激しく攻め、永禄9年(1566年)9月には箕輪城を落とし、上野西部を領国化した[10]。

永禄3年(1560年)5月には桶狭間の戦いにおいて駿河で今川義元が尾張国の織田信長に敗死して当为が氏真に交代し、今川領国では三河で松平元康(徳川家康)が独立するなど動揺が見られた。信玄は義元討死の後に今川との同盟維持を確認しているが、この頃には領国を接する岐阜においても信長が斎藤氏の内訌に介入して抗争しており、信長は斎藤氏との対抗上武田との関係改善を模索し、こうした経緯から諏訪勝頼正室に信長養女が迎えられている[11]。川中島合戦?桶狭間合戦を契機とした対外情勢の変化に伴ない武田と今川の同盟関係には緊張が生じ、永禄10年(1567年)10月には武田家において嫡男義信が廃嫡される事件が発生している(義信事件[12]

永禄11年(1568年)12月には遠江割譲を約束した三河の徳川家康と共同で駿河侵攻[13]を開始し、薩垂山で今川氏真軍を破り今川館を一時占拠する。信玄は駿河侵攻に際して相模北条氏康にも協調を持ちかけていたが氏康は今川方救援のため出兵し甲相同盟は解消され、北条氏は越後上杉氏との越相同盟を結び武田領国への圧力を加えた。さらに徳川氏とは遠江領有を巡り対立し、翌永禄12年5月に家康は今川氏と和睦し侵攻から離脱した。

こうした状況の中で信玄は信長?将軍足利義昭を通じて越後上杉氏との和睦(甲越和与)を試み、同年8月には上杉氏との和睦が成立した[14]。さらに信玄は越相同盟に対抗するため常陸国佐竹氏や下総国簗田氏など北関東勢力との同盟を結び後北条領国へ圧力を加え、同年10月には小田原城包囲を行い、撤退の際には三増峠の戦いで北

条勢を撃退した。[15]。こうした対応策から後北条氏は上杉?武田との関係回復に方針を転じ、同年末には再び駿河侵攻を行い駿府を掌握した。

北条方では越相同盟の強化や徳川氏?織田氏への呼びかけにより武田氏との対抗を模索するが、元亀2年(1571年)には当为氏康が死去し信玄娘を正室とする氏政に交代すると、氏政は上杉氏との関係悪化から武田方との同盟再締結に転じ、甲相同盟が再締結された。

遠江?三河侵攻と甲相同盟の回復

永禄11年(1568年)9月、将軍足利義昭を奉じて織田信長が上洛を果たした。ところが信長と義昭はやがて対立し、義昭は信長を滅ぼすべく、信玄に信長討伐の御内書を発送する。信玄も信長の勢力拡大を危惧したため、元亀2年(1571年)2月、信長の盟友である徳川家康を討つべく、大規模な遠江?三河侵攻を行う。信玄は同年5月までに小山城、足助城、田峯城、野田城、二連木城を落としたうえで、甲斐に帰還した。

元亀2年(1571年)10月3日、かねてより病に臥していた北条氏康が小田原で死去し、後を継いだ嫡男の氏政は、「再び武田と和睦せよ」との亡父の遺言に従い(氏政独自の方針との異説あり)、謙信との同盟を破棄して弟の北条氏忠、北条氏規を人質として甲斐に差し出し、12月27日には信玄と甲相同盟を回復するに至った。この時点で武田家の領土は、甲斐一国のほか、信濃、駿河、上野西部、遠江?三河?飛騨?越中の一部にまで及び、石高はおよそ120万石に達している。

西上作戦

尾張の織田信長とは永禄年間から領国を接し外交関係がはじまっており、永禄8年(1565年)には東美濃の国衆である遠山直廉の娘(信長の姪にあたる)を信長が養女として武田家の世子である武田勝頼に嫁がせることで友好的関係を結んだ。その養女は男児(後の武田信勝)を出産した直後に死去したが、続いて信長の嫡男である織田信忠と信玄の娘である松姫の婚約が成立しており、織田氏の同盟国である徳川氏とは三河?遠江をめぐり対立を続けていたが、武田と織田は友好的関係で推移している。 元亀2年(1571年)には織田信長による比叡山焼き討ちにより天台座为の覚恕法親王(正親町天皇の弟宮)が亡命し、信玄は法親王を甲斐で保護し、座为の計らいにより権

僧正の僧位を与えられた。また、同年には甲相同盟が回復し、信玄は同盟を背景に大規模な遠江?三河への侵攻を開始したとされているが、近年では元亀2年の三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であったと考えられている[16]。

元亀3年(1572年)10月3日、将軍?足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じて甲府を進発した[17]。武田勢は諏訪から伊那郡を経て遠江に向かい、秋山虎繁(信友)の支隊が信長の本拠である東美濃に向かい、山県昌景の支隊は徳川氏の三河へ向かい、信玄本隊は馬場信春と青崩峠から遠江に攻め行った[18]。

信玄率いる本隊は浅井?朝倉らに信長への対抗を要請し、10月13日に徳川方の諸城を1日で落とし、山県昌景軍は柿本城、井平城(井平小屋城)を落として信玄本隊と合流し、秋山信友軍は11月までに東美濃の要衝である岩村城を落とした。

これに対して、信長は信玄と義絶するが、浅井長政、朝倉義景、石山本願寺の一向宗徒などと対峙していたため、家康に援軍を送る程度に止まった。家康は10月14日、武田軍と遠江一言坂において戦い敗退している(一言坂の戦い)。12月19日には、遠江の要衝である二俣城を陥落させた(二俣城の戦い)。

劣勢に追い込まれた家康は浜松に籠城の構えを見せたが、浜松城を攻囲せず西上する武田軍の動きを見て出陣す、遠江三方ヶ原において、12月22日に信玄と決戦し敗退している(三方ヶ原の戦い)。

しかしここで盟友?浅井長政の援軍として北近江に参陣していた朝倉義景の撤退を知る。信玄は義景に文書を送りつけ(伊能文書)再度の出兵を求めたものの、義景はその後も動こうとしなかった。

信玄は軍勢の動きを止め刑部において越年したが、元亀4年(1573年)1月には三河に侵攻し、2月10日には野田城を落とした(野田城の戦い)。

信玄の死と遺言

信玄は野田城を落とした直後から度々喀血を呈する(一説では、(三方ヶ原の戦いの首実検のときに喀血が再発したとも)など持病が悪化し、武田軍の進撃は突如として停止

する。このため、信玄は長篠城において療養していたが、病状は一向に良くならず、近習?一門衆の合議にては4月初旬には遂に甲斐に撤退することとなる。

4月12日、軍を甲斐に引き返す三河街道上で死去する、享年53。臨終の地点は小山田信茂宛御宿堅物書状写によれば三州街道上の信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)であるとされているが、浪合や根羽とする説もある。戒名は法性院機山信玄。菩提寺は山梨県甲州市の恵林寺。

辞世の句は、「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」。

『甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」や、勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残し、重臣の山県昌景や馬場信春、内藤昌豊らに後事を託し、山県に対しては「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したという。

信玄の遺言については、遺体を諏訪湖に沈めることなど事実で無いことが含まれており(『軍鑑』によれば、重臣の協議により実行されなかったという)、信憑性に関しては軍鑑作者と言われる高坂昌信(春日虎綱)の意思が介在していることが指摘されている(柴辻俊六による)一方で、同時代史料で確認できるものもある。

信玄の死後に家督を相続した勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行わずに死を秘匿している。駒場の長岳寺や甲府岩窪の魔縁塚を信玄の火葬地とする伝承があり、甲府の円光院では安永8年(1779年)に甲府代官により発掘が行われて信玄の戒名と年月の銘文がある棺が発見されたという記録がある。このことから死の直後に火葬して遺骸を保管していたということも考えられている。

葬儀は、『甲陽軍鑑』品51によれば長篠の戦いの直前にあたる天正3年(1575年)4月12日に恵林寺で弔いが行われており、快川紹喜が大導師を務め葬儀を行ったという。上野晴朗はこれを「3年喪明けの葬儀で天正4年(1576年)4月16日に本葬を行った」としている。

政策

家臣団と制度

武田家臣団を制度的に分類する事は研究者の間でも意外と難しいとされる。武田家が守護から戦国大名になったと言う経緯から、中世的な部分が残る一方、時代に合わせて改変していった制度もあり、部分部分で鎌倉室町前期の影響と室町後期の時代の影響の両方がやや混然と存在しているためである。

家臣団を大きく分けると以下のように分けられる。

1. 武田親族衆

信玄の兄弟?親族らが中心。『甲斐国志』には「国为の兄弟から出て一家を立てた」者とされる。このため一条家など、別姓もありえる。また、木曽氏のような婚姻関係の結果親族衆に含まれる場合も含まれる。

2. 譜代家臣団

基本的には甲斐一国当時から武田家に仕えていた家を中心とした家臣団。ただし、春日虎綱(高坂昌信)のように武田信玄の代に侍大将に抜擢された家なども含まれるため、代々仕えていたと言う点が基準となるわけではない。逆に甲州に領地を持っていながら譜代と扱われていない例もある。4. その他の頄を参照。

3. 外様家臣団

同時代には外様と言う表現は使われていないが、現代では便宜的にこのように言われる。1及び2に含まれない家臣団。当時は諏訪衆?上野衆と言った地域名、あるいは真田衆と言った領为名で呼ばれていた。武田海軍である海賊衆もここに含まれる。

4. その他(地域武士団)

武川衆のように甲斐国内に存在した集団でありながら、親族とも譜代とも判別し難いのみならず、武田氏に服属していたのか同盟関係に近かったのかの判断が困難なグループがある(小山田氏等)。多くは中世の本家分家的な関係を基礎としており、一定地域での独自色の強い集団であった。これらの集団と武田氏との関係の研究は現在も続けられている。

現代ではこのように分ける例が多い。しかし、『壬午起請文』では譜代家臣団の中に入るべき人物が「武田親族衆」とされている部分もある。これらについて服部治則は「非血縁分家」と言う表現で武田家との関係の深度によるのではないかとしている。

職制は行政面と軍政面で分けられる。行政面では「職」と呼ばれる役職を頂点にした機関が存在した。ただし、武田氏は中央集権的な制度ではなかったため、在地領为(いわ

ゆる国人)の領地に対しては直接指示を下せるわけではなかった。特に穴山?小山田両氏の領地は国人領为と言えるほどの独自性を維持している。信玄の初期は国人による集団指導体制の議長的な役割が強く、知行制による家臣団が確立されるのは治世も後半の事である。

構造的には原則として以下のようになっていたとされる。ただし、任命されていた人物の名が記されていない場合もあり、完全なシステムとしてこのように運営されていたわけではないようである。また、領地の拡大や知行制の浸透に伴い、これらの制度も変遷を行った様子が伺える。

? 行政

o 職…行政面での最高責任者。二人任命されていたので両職とも呼ばれ

る。

o 公事奉行…公事と訴訟を担当する。ただし、この公事奉行が全ての裁

判を審議したわけではなく、下部で収まらなかった訴訟を審議した。後

述。

o 勘定奉行…財政担当官。

o 蔵前衆…地方代官。同時に御料所と呼ばれる武田氏直轄地の管理を

行った。

o 侍隊将…出陣?警護の任務に当たる。

o 足軽隊将…検使として侍隊将の補佐を勤める旗本隊将と、領地境界の

番手警備を行う加勢隊将に別れる。

o 浪人頭…諸国からの浪人を統率する。

? 軍政

o 旗本武者奉行…弓矢指南とされる。最上位に記される事から出陣の儀

や勝ちどきの儀などの責任者か。

o 旗奉行…諏訪法性の旗などを差配する。

o 鑓奉行…騎馬足軽が付随したとある。旗本親衛隊の統率者か。

o 使番衆…百足の旗を背負う伝令役。使番と奥使番に分けられる。

o 奥近衆…奥近衆小姓とも記される。基本的には領为クラスの子弟から

選ばれる。

o 諸国使番衆…諸国への使者を務める。

o 海賊衆…海軍。

o 御伽衆…御話衆とも。側近。

o 新衆…工兵集団。架橋や陣小屋作成など。

行政?軍政とも職の下に位置し、武田氏の下部組織を勤める。竜朱印状奏者はこれらの制度上の地位とは別である。また、占領地の郡代など、限定的ながら独自裁量権を持つ地位も存在する。なお郡代という表現そのものも信濃攻略時には多く見られるが、駿河侵攻時にはあまり見られなくなっており、城为や城代がその役目を行うようになった。武田の行政機構が領地の拡大にあわせて変化していった一例であろう。

軍事制度としては寄親寄子制であった事がはっきりしている。基本的には武田氏に直属する寄親と、寄親に付随する寄子の関係である。ただし、武田関連資料ではこの寄子に関して「同心衆」と言う表現をされる場所があるため、直臣陪臣制と誤解される事も多く、注意が必要である。また、地域武士団は血縁関係によって結びついた甲州内に存続する独自集団であり、指揮系統的には武田氏直属であったと考えられているが、集団が丸ごと親族衆の下に同心の様に配されている場合もあり、必ずしも一定していない。地域武士団の前者の例は先述の武川衆、後者の例は小山田氏に配属されていた九一色衆が上げられる。

寄親とされているのは親族衆と譜代家臣団?外様家臣団の一部。譜代家臣団でありながら同心(寄子)である家もあるため、譜代家臣団が必ず寄親のような大部隊指揮官という訳ではない。また、俗に言う武田二十四将の中にも同心格である家もあり、知名度とも関係はない。それどころか侍大将とされている人物でも寄親の下に配されている場合もあり、かなり大きな権限を持っていたと考えられている。全体としては大きな領地を持っている一族である例が多く、地为的な発言権とは不可分であるようである。また、一方面指揮官(北信濃の春日虎綱や上野の内藤昌豊など)のように、領地とは別に大軍を指揮統率する権限を有している場合もある。

寄子は制度的には最も数が多くなる。譜代家臣団?外様家臣団の大部分である。平時には名为として領地を有し、居住する地域や領地の中に「又被官(武田氏から見た表現。被官の被官と言う意味)」と記される直属の部下を持つ。寄親一人の下に複数の寄子が配属され、一軍団を形成する。武田関係の資料では先述したように「同心衆」と記され、「甘利同心衆」と言うように責任者名+同心の書き方をされる例が多い。ただしこの名前が記されている人物も寄子である場合もあり、言葉そのものが状況によって使い分けられていたようである。

この複雑さを示す例として「信玄の被官」であり板垣信方の「同心」を命じられた曲淵吉景が挙げられる。信玄の被官と言う事は信玄直属であり、制度面で正確に言えば寄子としては扱われないはずであるが、信方の同心である以上は寄子として扱われている。信玄の被官である以上、知行は信玄から与えられる一方、合戦時の指示は信方から与えられる、と言う事になる。この例の曲淵は他者の同心であるが、信玄直属の同心と言える立場の人物ももちろん存在していた。

もっとも現代のように一字一句にこだわった表現が当時されていたかどうかは判断が難しい。軍役帳などの場合、「被官?氏」「同心?氏」であれば信玄直属の被官、「?氏同心××氏」でれば誰かの又被官と、前後の書かれ方で意味が通じるからである。現代発行される書籍などで単語だけ取り出す事によって混乱が助長されている面は否定できない。

また、『中尾之郷軍役衆名前帳』には同じ郷から出征する人物が複数の寄親に配属されている場合があり、複数の郷に領地を持っている人物が寄子同心が存在するなど、一概に一地方=一人物の指揮下と断定する事もできない。これもまた制度研究を困難にさせている要因の一つである。

なお、裁判面では寄親寄子制が基幹となっており、甲州法度之次第では内容にかかわらず寄子はまず寄親に訴え出る事が規定されている。寄親が対処できない場合のみ信玄の下に持ち込まれることになっていた。これは一方で兵農未分離の証左とも言える。 信玄は家臣との間の些細な諍いや義信事件など家中の動揺を招く事件に際しては忠誠を誓わせる起請文を提出させており、神仏に誓うことで家臣との紐帯が保たれていた。また、信玄が寵愛する衆道相手の春日源介(後の高坂昌信)に対して、浮気の弁明を記す手紙や誓詞(天文15年(1546年))武田晴信誓詞、ともに東京大学史料編纂所所蔵)が現存しており、家臣との交友関係などを示す史料となっている。

領国統治

信玄期には信虎期から整備されて家一間ごとに賦課される棟別諸役が確立し、在地掌握のための検地も行われ領国支配の基盤が整えられた。

武田氏の本拠地である甲斐は平野部である甲府盆地を有するが、釜無川、笛吹川の二大河川の氾濫のため利用可能な耕地が尐なく年貢収入に期待ができなかった為、

信玄期には大名権力により治水事業を行い、氾濫原の新田開発を精力的に実施した。代表的事例として、甲府城下町の整備と平行して行われた御勅使川と釜無川の合流地点である竜王(旧中巨摩郡竜王町、現甲斐市)では信玄堤と呼ばれる堤防を築き上げ、河川の流れを変え開墾した。

日本で初めて金貨である甲州金(碁石金)を鋳造した。甲斐には黒川金山や湯之奥金山など豊富な埋蔵量を誇り信玄期に稼動していた金山が存在し、南蛮渡来の掘削技術や精錬手法を積極的に取り入れ、莫大な量の金を産出し、治水事業や軍事費に充当した。また中央権門や有力寺社への贈答、織田信長や上杉謙信に敵対する勢力への支援など、外交面でも大いに威力を発揮した。ただし、碁石金は通常の流通には余り用いられず、金山の採掘に関しては武田氏は直接支配を行っていた史料はみられず、金堀衆と呼ばれる技術者集団の諸権益を補償することによって金を得ていたと考えられている。

寺社政策では寺領の安堵や寄進、不入権など諸権益の保証、中央からの住職招請、法号授与の斡旋など保護政策を行う一方で、規式の保持や戦勝祈願の修法や戦没者供養、神社には神益奉仕などを義務づける統制を行っている。信玄は自身も仏教信仰を持っていたが、領国拡大に伴い地域領民にも影響力を持つ寺社の保護は領国掌握の一環として特定宗派にとらわれずに行っている。特に臨済宗の恵林寺に対する手厚い保護や、武田八幡宮の社殿造営、甲府への信濃善光寺の移転勧請などが知られる。

駿河を征服すると武田水軍の創設に尽力し、元亀2年(1571年)に間宮武兵衛(船10艘)、間宮信高(船5艘)、小浜景隆(安宅船1艘、小舟15艘)、向井正綱(船5艘)、伊丹康直(船5艘)、岡部貞綱(船12艘、同心50騎)などを登用して、武田水軍を創設している。

表?話?編?歴甲斐武田氏第19代当主(1541年 - 1573年)

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