毕 题 目:学 院:专 业:毕业年限:学生姓名:学 号:指导教师:
业 论 文 紫式部の一生と『源氏物語』との繋がり 外国语学院 日语 2013 陈海燕 200952040101 孟庆利
摘 要
《源氏物语》是遥远的平安时代光源氏的物语,被誉为日本物语文学的最高杰作,千百年来,它经久不衰,至今仍令世人为之着迷。这部长篇小说讲述了容貌靓丽、多才多艺、富有爱心的男主人公光源氏与行行色色的女子间的纯爱、悲恋、以及禁断之恋。作者是大家熟知的紫式部。小说每页400字的稿纸用了2300张,出场人物超过400人,这部宏大的物语是如何诞生的呢?其实,作者紫式部她将自己的人生投影在这部小说中。与拥有妻儿的中年贵族之恋,加之深爱的丈夫突然死去,紫式部以自身的经历为蓝本,写下了人们的悲喜情愁。这部充满现实意味的物语引人共鸣,令人沉醉,为人称颂。注意到这部小说的是有权势的贵族藤原道长,当时,为了在宫中激烈的权力斗争中取胜,道长需要借助紫式部的力量。《源氏物语》与紫式部的才能和崎岖命运以及道长的政治战略奇迹般地联系在一起最终横空出世了。本文分为两大章,将结合《紫式部日记》、
《紫式部集》以及濑户内寂听译《源氏物语》等来探究《源氏物语》的诞生与作者生平、内心世界的联系。
第一章,结合紫式部的人生经历,童年时期家庭生活状况,青年时期与陌生男子的“一夜邂逅”,不幸婚姻带给她的打击等,探索紫式部的内心世界与后来创作《源氏物语》之间的必然联系。
第二章,将《源氏物语》中的《夕颜卷》、《帚木卷》和《绘和卷》与《紫式部日记》、《紫式部集》等的记述相联系。紫式部借光源氏,空蝉、六条御息所等人物形象表达个人情怀,又遇藤原道长,使得《源氏物语》这部巨著得以横空出世。
关键词:紫式部 源氏物语 光源氏 关联
要 旨
『源氏物語』は遥かな平安時代の光源氏の物語で、日本文学史上最高な傑作である。千百年を経っても、衰えない。今なお人々を魅了しつづけているのである。『源氏物語』では、男主人公の博愛の光源氏は顔が美しくて、才能も多くて様々な女性たちと純愛や悲恋,禁断の恋などを繰り広げる長編小説である。作者はご存知の紫式部である。400字の原稿用紙およそ2300枚を用い、登場人物400人も超える壮大な物語はどのようにして生まれたのか。実は紫式部は自らの人生を物語に反映させていたのである。紫式部は、妻子ある中年貴族との恋や愛する夫の突然の死などの自らの経験を種本として、人間の悲しみや喜びを書き続いていく。誰もが共感するそのリアルな物語は人々を魅了し、評判となる。有力貴族の藤原道長は当時宮中での熾烈な権力争いに打ち勝つために、紫式部の力が必要なので、『源氏物語』に目を付けた。『源氏物語』は紫式部の才能と数奇な運命、それに藤原道長の政治戦略が奇跡的に結びつくからこそ世に出るのである。本文は二章に分けて、『紫式部日記』や『紫式部集』、そして瀬戸内寂聴訳の『源氏物語』などを通じて、『源氏物語』の誕生と作者の一生や内心世界との連絡を検討してみる。
第一章では紫式部の人生経験を見て、幼尐期の家庭生活からの影響、青年期で知らない男との「一夜限りの逢瀬」、そして、不幸な婚姻も紫式部に大きなショックを与えた。それらから見ると、紫式部の内心世界と『源氏物語』の生まれの間に必然の関連があるかもしれないのではないか。
第二章では『源氏物語』の『夕顔巻』、『帚木巻』、『絵合巻』と『紫式部日記』、及び『紫式部集』の記述を比較してみる。紫式部は光源氏、空蝉、六条御息所などの人物を通して自分の気持ちを表す。その後、藤原道長との知り合いで、『源氏物語』は世に出るのである。
キ―ワ―ド:源氏物語 紫式部 光源氏 関連
目 次
序論 ..................................................... 5
本論 ..................................................... 6
1、紫式部の人生経験と『源氏物語』の生まれの関係 .......... 6
1.1幼尐期の家庭生活からの影響 ........................ 6
1.2一夜限りの逢瀬からの影響 .......................... 7
1.3不幸な婚姻からの影響 .............................. 7
2、『源氏物語』は紫式部の生活経験の再現 ................... 8
2.1『源氏物語』の『夕顔巻』に紫式部の悲しみ ........... 8
2.2『源氏物語』の『帚木巻』に紫式部の心根 ............. 8
2.3藤原道長との出会い ................................ 9
2.4文学文化の名を借りた政治的な対抗 ................. 10
2.5『源氏物語』の『絵合巻』と現実の類似 .............. 10
結論 .................................................... 12
謝辞 .................................................... 13 注釈 .................................... 错误!未定义书签。
参 考 文 献 .......................................... 14
序 論
『源氏物語』が一条天皇に献上され、その後広く読まれ、それについて褒める人もいれば、貶めるひともいる。作者は紫式部である。「紫式部」という名前は後につけられたのであって、彼女の本名は分からない。彼女の生まれたときや死んだときも分からない。その意義では、紫式部はミステリアスな女性である。紫式部を知る手がかりの一つは彼女の書いた日記『紫式部日記』である。寛弘五年の十一月一日、その日記では、「あなかしこ、このわたりに、若紫やさぶらふ。」と記していた。(『紫式部日記』より)。iこれによって、『源氏物語』の存在が世に知られたのである。それは歴史上に『源氏物語』について最初の記述である。紫式部の前半生は不幸ということができるが、彼女は確かに才能のある女性である。たとえば、『源氏物語』に漢籍もずいぶんあり、『史記』とか、『白氏文集』とか、十数種類の漢籍が入っている。そして、『源氏物語』の描くそざいや人物設定も豊である。『竹取物語』も有名であるが、荒唐無稽な物語が中心であった。『竹取物語』などと違い、『源氏物語』は現実の人間のリアリティ―が描かれている。『源氏物語』は画期的な物語といえる。では、『源氏物語』はどう生まれたのか。日本文学界では、『源氏物語』についての研究は歴史が長く、小論は『紫式部日記』や『紫式部集』,そして瀬戸内寂聴訳の『源氏物語』などを通じて、『源氏物語』の誕生と作者の一生や内心世界の連絡を論じてみる。
本 論
1、紫式部の人生経験と『源氏物語』の生まれの関係
実は日本文学史上の最高傑作『源氏物語』は二つの大きな物語が行方にも交差して展開するのである。一つは平安時代の宮廷を舞台にして貴公子光源氏が様々な魅了的な女性たちと恋愛を重ねる愛の物語である。もう一つは、その光源氏が高貴な身分から転落したうち、再び栄華を目指して権力争いに繰り広げる政治サスペンスである。紫式部はなぜこのような小説を書いたのかと聞いたら、その理由は彼女の生い立ちに隠されているのである。
1.1幼尐期の家庭生活からの影響
平安時代半ばの京都で、紫式部は中流貴族の娘として生まれた。紫式部は幼いころに母と死に別れたため、その母の記憶がなかった。一方の父はほかにも妻を作り、紫式部をおいて、家を空けることもしばしばであった。そんな紫式部の心の隙間を埋めたのが文学であった。父が漢学者であったため、書物は身近にたくさんあった。紫式部は当時日本で生まれたばかりのひらがなの和歌や物語、さらに中国の漢詩や歴史書まで読んだ。紫式部の父が息子に中国の学問漢籍を教えていたとき、そばに聞いていた紫式部のほうが覚えが速かったのである。しかし、当時、漢籍は宮廷で男性が出世するための知識で、一般女性には不必要なものと言われた。紫式部の父はこう嘆いた。「口惜しう、男子にて。」(『紫式部日記』より)。ii(お前が男でなかったことが我が家の不運である。) 紫式部はこのように教養を身につけることで特別な視点で物事を取る力が備えていた。それをうかがわせる紫式部の和歌が残っていく。十代半ばの頃、川がら見かけた怪しい僧侶を詠んだ歌である。「はらへどの、神のかざりの、みてぐらに、うたてもまがふ、耳はさみかな。」(『紫式部集』より)。iii(お坊さんが内職のために、本来はできない陰陽師のまねをしてお祓いし、礼金を受け取っている。なんと浅ましいことだろう。)物事の本質を鋭く見抜いた読み口、作家に必要な資質が十代の紫式部にはすでに備わっていた。
このころ、宮中では、上流貴族の熾烈な権力抗争が続いていた。それが中流
貴族の紫式部の家庭に大きく影響することになった。宮廷に仕えていた紫式部の父が上流貴族の政変のあおりを受け、職を失ったのであった。その時、失職した父に代わり、紫式部は知り合いの貴族のもとで食事の用意などをする女房見習いとして学んだ。華やかさと果敢なさが背中合わせの貴族社会の無常を紫式部が実感した。
1.2一夜限りの逢瀬からの影響
紫式部が年齢をとるにつれて、恋愛経験も重ねていた。当時の風習に不吉な方角へ出かける時に前日吉の方角の家に泊まる方違えがあった。その方違えで紫式部の家に泊まった男がなんと彼女の寝室に忍び込んできた。翌日朝、紫式部は冷ややかなの男に和歌を呼んだ。「おぼつかな、それからぬか、あけぐれの、そらおぼれする、朝顔の花。」(『紫式部集』より)。iv(あなたが契りを結んだのは、私と知ってのか。それとも、誰かと間違えたのだろうか。本当はどちらなのか。)行きずりの逢瀬、それが本当の恋なのか、一夜限りで終わるのか、紫式部の喜びと惑いが私たちは読み取れる。
1.3不幸な婚姻からの影響
やがて、紫式部は自らの人生を大きく変える運命の人と出会った。長徳四年、紫式部は妻子ある中流貴族の藤原宣孝と結婚した。当時の結婚は一夫多妻制、夫がそれぞれの妻の家を訪ねるものである。紫式部は夫の足が自分のもとから遠く、夜離れを経験した。その思いを詠んだ和歌である。「おほかたの、秋のあばれを、思ひやれ、月に心は、あくがれぬとも。」(『紫式部集』より)。v(晩秋のころ、あなたに厭きられている私の悲しみを思ってください。あなたの心が月のように女性に奪われているとしても。)夜離れになっても、紫式部はずっと夫のことを深く思う。宣孝もやがて紫式部に答えた。間もなく二人は娘を授かり、紫式部はささやかな幸せをつかんだ。ところが、悲劇が訪れた。結婚からわずか二年半後、彼女の夫が疫病によって突然に世を去ったのであった。紫式部は一人娘とともに絶望の淵に立たされた。それは『源氏物語』が一条天皇に献上された7年前のことであった。
悲しみの中で紫式部は何を糧に生きたのか。紫式部の悲しみは『源氏物語』とどう繋がるのか。彼女を支えたものは文学であった。『紫式部の日記』であ
る。「行くすゑの、心ぼそさは。」(『紫式部日記』より)。vi(未亡人として、当てのない将来を心細く思い、その日その日の悲しさを紛らわすために、儚い物語を書いておる。)紫式部は自ら筆を執り、物語を書き始めた。そして,この儚い物語は後の『源氏物語』と考えられている。
原田敦子さんは『源氏物語』の内容は夫をめぐる紫式部自身の経験と深い関係があると言った。紫式部はいつ『源氏物語』を書き始めたのは確かめないが、蓋然性が高いのが彼女の夫、宣孝がなくなってからだと思われる。紫式部は人生の無常を思い知って、人間とは何か、生きるとはどういうことか,フィクションの世界を織り込んでいた。宣孝との結婚生活や夫を偲ぶ歌などが随所に生かされている。
2、『源氏物語』は紫式部の生活経験の再現
紫式部は自らの経験を巧妙に織り込みながら、リアリティーが溢れる物語を展開した。それは作られた物語世界にどのように反映されたのだろうか。
2.1『源氏物語』の『夕顔巻』にの紫式部の悲しみ
光源氏の愛人夕顔はその可憐さで光源氏の心を強くとらえていた。しかし、夕顔は逢瀬の最中に急死する。深く悲しんだ光源氏はその嘆きを和歌にする。「見し人の、けぶりを雲と眺むれば、夕べの空も、むつましきかな。」(『源氏物語』より)。vii「恋しい人を葬った煙、もしやあの雲と眺めているとさびしい夕暮れの空も懐かしくて。」(瀬戸内寂聴訳『源氏物語』より)。viii実は紫式部本人も同じような和歌を読んでいた。「見し人の、けぶりとなりし、夕べより、名そむつましき、塩釜の浦。」(『紫式部集』より)ix
亡き夫を今も深く思う紫式部の歌と、物語で紫式部が光源氏に読ませた悲しみの歌、どちらも経験した本人ならではの繊細な感情が伝わってくるのである。かつて、夫の夜離れに苦しんだ思いは、光源氏の年上の恋人、六条御息所に重ねた。光源氏は気位の高い六条御息所を持て余し、足が遠のく。その六条御息所が夜ひとりで悶悶と過ごすさまである。「淋しい独り寝の眠れない夜毎には様々な悲しい思いが胸にせめぎあい、しおれきっていらっしゃるのだった。」(瀬戸内寂聴『源氏物語』より)。x
2.2『源氏物語』の『帚木巻』にの紫式部の心根
結婚の前、紫式部が方違えで経験した行きずりの逢瀬、その戸惑いは光源氏と関係を持った空蝉に語らせた。
ある夜、光源氏が方違えで訪れた屋敷で空蝉の寝所に忍び込む。一夜の契りに揺れ、空蝉の言葉である。「こんなかりそめの浮き寝めいた一夜のはかない情事だと思うと、これ以上の悲しみはない。」(瀬戸内寂聴『源氏物語』より)。xi
2.3藤原道長との出会い
紫式部はこうした物語を親しい女友達に披露をした。それは彼女たちにとって、これまで、読んだこともない新しい物語であった。登場する恋のつらさや別れの悲しみ、まるで自分の出来事のように感じられたのである。紫式部の物語は書き移され、口つたえの評判を呼び、やがて宮中に届いた。そして、紫式部が夫を失ってから5年、『源氏物語』は世に出る大きな転機が訪れた。紫式部は宮中に召し出されたのであった。紫式部を呼んだのは政権の獲得を目指していた有力貴族の藤原道長である。そのごろ宮中では、紫式部のようなずば抜けた教養のある女性が必要とされていた。当時、道長は一条天皇のもと甥の藤原伊周と政権の座をめぐり激しく競い合ってきた。政権の座、天皇といかに強く結びつくかで決めた。伊周は妹の定子を一条天皇の妃にし、王子も誕生、さらに強力な教育係を登用していた。随筆集『枕草子』を書いた清尐納言である。文学好きの一条天皇の寵愛を受けるため、妃に教養ある女官をつけたのである。一方の道長も伊周に対抗して、娘彰子を一条天皇に嫁がせるが、王子ができず、焦りを感じていた。一条天皇の心をなんとしてでも彰子に向けさせなければならない、そのため、道長はわが子にも清尐納言のような文才のある女官を付けられないものかと思っていた。道長の目に留まったのは『源氏物語』の作者紫式部であっる。
寛弘二年十二月二十九日、紫式部は宮中に初めて上った。これはそこまでの紫式部にとって創造や伝聞の世界であって、紫式部は日記に記していた。「いみじくも夢路にまどわれし(かな)。」(『紫式部日記』より)。xiiそれは『源氏物語』が一条天皇に献上される3年前のことであった。
夫を亡くした悲しさや寂しさで、紫式部は筆を執った。彼女が描いた物語は
表現、登場人物、ストーリー展開も極めてリアリティーに富んでいた。したがって、多くの人から評判を呼び、藤原道長の耳に届いた。当時道長はもっと権力を自分に持っていきたい野心があった。
2.4文学文化の名を借りた政治的な対抗
藤原道長の娘彰子の教育係に起用され、宮中に上った紫式部は数日で、宮中を退き実家に下がってしまった。紫式部の思いでである。「宮仕えに出ても、私の嘆きは晴れることがなく、逆にあれこれと心が乱れてしまう。」(『紫式部集』より)。xiii紫式部は自分が宮中の女房達から鳴り物入りの物語作家と好奇な目でみられていることに気づき、いたたまれなくなったのであった。紫式部は実家に半年以上をこもった。しかし、紫式部は作家として、きらびやかな宮中への好奇心は消えることがなかった。紫式部は再び宮中に戻るため、自分の感情と才華を抑えた。紫式部は日記につづっている。「漢字の「一」の字でさえ書けない者のように振る舞った。」(『紫式部日記』より)。
紫式部は愚直を装う仮面をつけることにしたのである。これが効を奏し、周りの女房たちの態度は急変した。「こと人かとなむおぼゆる。」(『紫式部日記』より)。xiv(物語好きで、気取り屋で人を見下す人だと憎んでおりましたが、実際に付き合ってみると、まるで別人。)
紫式部は宮中の内部を持ち前の冷静な眼差しで観察することで、物語に新たな深みを加えた。清尐納言のライバルとして、紫式部自身が巻き込まれた朝廷内の権力争いを描くようになったのである。
2.5『源氏物語』の絵合巻と現実の類似
光源氏は親友権中納言と政治的なライバル関係になり、二人は互いに自分の娘を帝に嫁がせるが、帝は光源氏の娘を寵愛した。焦った権中納言は絵画好きの帝の心を自分の娘に向けさせようと一流の絵師に絵を描かせ届いた。これに対抗し、光源氏も名画を献上、最後には帝の前で互いの絵を競い合い、絵合わせという催しで争いの決着をつけることになった。二人の政治家が絵画の出来栄えを競い、天皇の関心を引こうとする権力争いの場面設定、この絵画を文学に置き換えると、まさに清尐納言の『枕草子』や紫式部の『源氏物語』の文芸対決を重なる。『源氏物語』はより奥深さと壮大さを兼ね備えた政治劇へと展
開した。それは道長の思惑通り、一条天皇の関心を引くにふさわしい作品になっていたと考えられる。
そして、紫式部は宮中に出仕してから3年後、『源氏物語』が世に出る大きな転機が訪れた。一条天皇と藤原道長の娘彰子の間に待望の王子が誕生したのであった。これを機、藤原道長は天皇との結びつきをさらに強めようとした。それは『源氏物語』を王子誕生の祝の品として一条天皇に献上することであった。これまで紫式部が書き溜めてきた『源氏物語』をまとめ製本するには、当時貴重だった紙や墨を膨大に用意しなければならない。しかも、天皇に献上するには、最高級のものが求められた。いい紙で作った写本は高価だから、普通の人には作れない、経済力が必要であった。藤原道長みたいな財力あったり、権力あったり人たちがそういう紙を特に注文して物語を作らせたのであった。当時最高級の色とりどりの色紙によって製本された華やかな『源氏物語』が完成した。
そして、その時、寛弘5年、西暦1008年11月17日。特別に製本された『源氏物語』が一条天皇に献上された。これを読んだ一条天皇は絶賛した。「さえ(オ)あるべし。」(『紫式部日記』より)。xv(この作者は真に才能のある者である。)
しかし宮中でみんなにもてはやされる中で紫式部は冷静だった。日記に綴っている。「こころみに物語をとりて見れど、見しやうにもおぼえず、あさましく。」(『紫式部日記』より)。xvi(ためしに物語を手にしますが、以前のように面白くない。嘆かわしいことである。)
自分が書いたものが天皇から高い評価を得たことに誇りに思わなかったはずがない。その反面、自分の存在とか『源氏物語』は藤原道長の後宮文化政策の一環として利用され、政治の権威を高めるために使われることに複雑な思いを抱かざるを得なかったのである。
これ以降、道長は権力の座を盤石にし、未曽有の栄華を極めた。いっぽう、物語作家として、名誉の頂点に立った紫式部はこの後も『源氏物語』を書き続けていた。
結 論
『源氏物語』は道長の長期安定に基礎を固め、日本の文学に大きなインパクトを与えた。『源氏物語』は紫式部の才能、人生、時代を奇跡的に結び、大きな意味を持っている。そして、紫式部は才能だけがあっても十分ではなく、恋愛と結婚と生育と夫をなくなるようなことがなければ、『源氏物語』が生まれなくなる。そして、『源氏物語』が千年の間、読み継がれてきたことに大きな意義がある。いろんな方が様々な読み方をする。『源氏物語』は現代にまさに生きていた物語として、読まされている。古典で過去のものではなく、今も生きている小説であった。
第一章では紫式部の人生経験を見て、幼尐期の家庭生活からの影響、青年期で知らない男との「一夜限りの逢瀬」、そして、不幸な婚姻も紫式部に大きなショックを与えた。それらから見ると、紫式部の内心世界と『源氏物語』の生まれの間に必然の関連がある。
第二章では『源氏物語』の『夕顔巻』、『帚木巻』、『絵合巻』と『紫式部日記』、『紫式部集』の記述を比較する。紫式部は光源氏、空蝉、六条御息所などの人物を通して自分の気持ちを表す。後は藤原道長との知り合いで、『源氏物語』は世に出た。
『源氏物語』は書かれた千年前、恋の物語は歴史や歌と比べ、教養のない格下のものとみられた。物語の世界に自らの道を見出した紫式部は思いを主人公光源氏に語らせていた。「出来事を書き連ねた歴史書の中には、物事の真実はない。むしろ物語の中にこそ、人の真実が隠されているのです。」(『源氏物語』より)。xvii
謝 辞
拙稿は、多くの先進の方々の著書や論文のおかげを被ることが尐なくありませんでした。今、いちいち芳名を記すことは省かせていただきますが、それらの方々の深い学恩に対して、ここに謹んで、厚くお礼を申し上げます。特に、資料収集の段階から西北師範大学外国語学院の諸先生方より、熱心にご意見、ご指導を撃つ賜りました。この場を借りて、再び厚くご礼を申し上げます。
注 釈
i 紫式部『紫式部日記』「M」東京:新潮社 19xx年 P32 前掲書 P92
紫式部 『紫式部集』「M」東京:新潮社 19xx年 P42 iiiii
iv
v 前掲書 P60 前掲書 P66
紫式部 『紫式部日記』「M」東京:新潮社 19xx年 P144 紫式部 『源氏物語』「M」訳林出版社 20xx年 P65
瀬戸内寂聴 『現代語訳源氏物語 』「M」講談社 19xx年 P87 viviiviii
ix 紫式部 『源氏物語』「M」訳林出版社 20xx年 P37 x 瀬戸内寂聴『現代語訳源氏物語 』「M」講談社 19xx年 P88 前掲書 P95
紫式部 『紫式部日記』「M」東京:新潮社 19xx年 P93 紫式部 『源氏物語』「M」訳林出版社 20xx年 P156 xixiixiii
xiv
xv 紫式部 『紫式部日記』「M」東京:新潮社 19xx年 P78 前掲書 P102
前掲書 P130
紫式部 『源氏物語』「M」訳林出版社 20xx年 P238
xvixvii
参 考 文 献
[1]原田敦子 空蝉の夢『源氏物語作中人物論集』東京:勉誠社 19xx年
[2]伊井春樹 『源氏物語の謎』東京:三省堂 19xx年
[3]加納重文 『源氏物語とその時代』東京:おうふう 20xx年
[4]渋谷栄一 『源氏物語の注釈史』東京:おうふう 20xx年
[5]瀬戸内寂聴 『現代語訳源氏物語 』講談社 19xx年
[6]原田敦子 『紫式部日記の始発-道長家栄華の記録』国文学 19xx年
[7]原田敦子 『紫式部日記紫式部集論考』東京:笠間書院 20xx年
[8]紫式部 『紫式部日記』新潮社 19xx年
[9]伊井春樹 『物語文学の系譜』京都:世界思想社 19xx年
[10]张龙妹 『世界语境中的源氏物语 』人民文学出版社 20xx年
[11]丰子恺 『源氏物语』人民文学出版社 20xx年3月