21223 20xx 日语专业学生毕业论文格式与范文

时间:2024.4.20

2122320xx日语专业学生毕业论文格式与范文

2122320xx日语专业学生毕业论文格式与范文

日语专业本科学位论文

格式手册

南京晓庄学院外国语学院

2012-12

日语专业本科学位论文格式要求

1.总则

(1) 语言:论文用日语撰写。封面、声明、文内作者、摘要、参考文献可以用汉语;文内例

句若需要中日对照,也可以用汉语。

(2) 长度:正文6000~8000日文印刷符号(不含目录、摘要、参考文献)。

(3) 打印:

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(1) 论文封面:

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(2) 学位论文独创性声明:

?标题:小二号、宋体、加粗。

?内容:四号、宋体(内容见模板)。

(3) 日文「要旨」(在前)、中文“摘要”(在后)与关键词

?标题行:日文MS Mincho、中文宋体,均为三号、加粗、居中。

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?日文摘要800~1000日文印刷符号,中文摘要500~800字。

?“关键词”加粗,左顶格。关键词3~5个。关键词与关键词之间用“;”隔开。

中日文摘要、关键词内容要对应。

(4) 目录页:

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?正文:MS Mincho,小四号、左顶格。次层次比上一层次退后两空格(一个汉字)。 ?整页均为1.5倍行距;标题空行处理请参见模板。

(5) 正文内的日语大标题:

?大标题前空两行,后空一行,均为五号空行。

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(6) 正文内容:

?结构层次:正文分为章、节、小节。章的编号:1. ,2.,3.,…;节的编号:1.1, 1.2…,

2.1, 2.2…;小节的编号:1.1.1, 1.1.2…。若小节以下还需分出层次,采用(i),(ii),(iii)标识。各数字均为半角状态。

?章与章之间、节与节之间空一行(5号),但小节及小节以下层次间不空行。连续性标题

也不空行。

?小标题(章、节、小节):左顶格、MS Mincho、小四、加粗。单独成行,无结尾标点。 ?正文文字:MS Mincho、五号、行距固定值20磅。段落首行空一个字。

(7)文献引用:

?引用他人的原话必须加日文引号“「 」”,并在该内容后加尾注,正文里的引文及需要说明处的末尾写明注的序号“(注1)、(注2)”,论文最后依次标明注的作者、日期和页码等内容。正文已经出现作者名字时,只需标出日期和页码。

?“注”标题行用MS Mincho、小四号、加粗、左顶格。注的内容,汉语用楷体、五号,日语用MS Mincho、五号、单倍行距。如果引用的内容超过三行,采用段落引用格式。

?引用他人的观点,可以采用阐释、概述的方式,并在该内容后注明作者和日期,页码可以不标注。

(8)参考文献:

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?文献项目:MS Mincho(汉语宋体)、五号、单倍行距。

?文献类别以单字母方式标识:专著[M]、译著[M]、期刊文章[J]、报刊文章[N]、论文集[C](析出文献用[A])、学位论文[D]、报告[R]、标准[S]、网络文献[Z]加(http://―――)。 ?顺序:日文文献在前,按作者姓氏的假名顺序。中文文献在后,按作者姓氏的汉语拼音顺序。参考文献的序号左顶格,并用数字加方括号表示,如[1]、[2]、?。

a、专著、论文集、学位论文、报告

[序号]主要责任者?文献题名?[文献类型标识]?出版地?出版者?出版年?起止页码 b、期刊文章[序号]主要责任者?文献题名?[J]?刊名?年?卷(期)?起止页码 c、论文集中的析出文献

[序号]析出文献主要责任者?析出文献题名?[A]?原文献主要责任者(任选)?原文献题名?[C]?出版地?出版者?出版年?析出文献起止页码

d、报纸文章[序号]主要责任者?文献题名?[N]?报纸名?出版日期?(版次)

e、电子文献[序号]主要责任者?电子文献题名?[Z].电子文献的出处或可获得地址(http://www. /)?发表或更新日期、引用日期(任选)2010―01-01

f、各种未定义类型的文献

[序号]主要责任者?文献题名?[Z]?出版地?出版者?出版年

(9)謝辞:

?“謝辞”行:MS Mincho,三号、加粗、居中。

?正文:MS Mincho,小四号。整页均为1.5倍行距。

3 其它说明:

?引文、夹注、脚注、表格等以模板中具体例子说明。

?本手册对各类标题的字体、字号作了详尽说明,仅作资料备用,学生不必记忆。在实际操作中,可直接使用WORD中的格式刷。

4 附录(论文模板)

分 类 号:

学校代码:11460

学 号:

南 京 晓 庄 学 院

本 科 生 学 士 学 位 论 文

中国茶文化与日本茶道的联系

中国茶文化と日本茶道のつながり

所在院(系): 外 国 语 学 院

学 生: 方 园

指 导 老 师: 莫 文 水

研究起止日期:20xx年10月至20xx年5月

二○一三年五月

学位论文独创性声明

本人郑重声明:

本论文是本人在导师指导下独立从事研究所取得的成果。文中除以参引或注释形式标明出处者外,不含任何其他个人或机构已发表或未发表的著述或研究结果。对本文的研究做出贡献的个人和机构,均已在“致谢”中加以说明。

本人完全了解,违反上述声明所引起的一切法律责任将由本人承担。

本人签名_______________

年 月 日

要 旨

日中両国は二千年余りの友好交流の歴史の中で、いろいろな文化交流の成果ができた。中国で生まれ日本で花開き実を結んだ茶道は日本伝統文化の代表である。茶道は中国から日本へ伝えられ、日本の伝統文化と結びついて、日本民族の独特な気質と風格が備わった。茶道は日本の宗教、芸術、哲学、社会、美学、礼儀、倫理と融合して、総合的な文化となり、日本文化の中でとても重要な地位を占めている。

茶道についての研究は日本研究のとても重要な分野である。茶道は世界東方の二つの民族の文化交流の結晶で、東方文化の特質をもっている。そのうえ、茶道の研究は東洋文化についての研究と離れられない。本稿は日中茶文化の交流過程、茶道の変遷及び現実生活の中での意義を探求したい。今までの方人々の研究成果を踏まえて、①茶の起源と茶道の発展、②日本茶道、③儒教、道教、仏教と茶道、④現代茶道の意義などを研究した。

茶は薬用、祭祀、食用、飲用から一種の文化となり、物質形態の中から精神の高度を昇華して、中国の儒、道、仏の各派の思想を取込んで、独特な文化茶道となった。各時代の文人や庶民は茶を飲んで、茶道を提唱していた。

中国の茶は「唐の時代に巻起こって、宋の時代に繁盛する」。この二つの時代は、日本留学僧の派遣の最盛期で、日本茶道が誕生から大成まで中国文化の影響を受けていると言われている。それゆえ、日本茶道は仏教のほかに、中国の儒教や道教の精神も含まれている。日本茶道の「和、敬、清、寂」は中国茶道の「和、静、怡、真」と共通している。

中国茶道にしても日本茶道にしても環境の静寂と調和、心の開放と精神の昇華を追求している。よって、茶は人間の生理の需要を満足するほかに、人間の心理的な需要を満足することもできる。現在の社会効用は以下とされている。

①情操を陶冶する。②人間関係を調和する。③社会気風を浄化する。

これらはいま茶道についての研究が流行ってきた原因である。茶道を提唱し、これによってそれを発揚して広げにすべきである。

キーワード:茶道;伝統;和敬清寂;禅;文化

摘 要

中国和日本在两千多年的友好交流的历史中产生了很多文化交流的成果,诞生在中国,光大于日本的茶道就是其中的一朵奇葩。茶道自中国传入日本,与日本的传统文化相互融合从而具有了日本民族独有的气质和韵味。它与日本的宗教、艺术、社会、哲学、美术、伦理、礼仪溶为一体,从而行成了一门综合性的文化,在日本文化中占据着十分重要的地位。

对于茶道的研究一直是日本文化研究的一个重要领域。对于茶道的研究离不开对对东方文化的研究,茶道是世界东方两个民族文化融合的结晶,具有东方文化的特质。本文旨在研究中日茶文化交流的过程,茶道的变迁以及它在现实生活中的意义。在前人研究的基础上通过对茶的起源以及茶道的发展;儒教、道教、佛教对茶道的影响;中国历代对日本茶道的影响。

茶起源于中国,从药用、祭祀、食用到饮用,最终成为一门文化,从物质形态升华出精神内涵,融合了中国儒教、道教、佛教诸派思想独成一体,历代文人墨客,庶民百姓饮之颂之,留下了中国古代文化、政治、经济的烙印,并对中国社会发展产生重要影响。

中国茶兴于唐而盛于宋,在这两个朝代日本均有大量留学僧来中国学习,可以说日本茶道从产生到大成都受到中国文化的影响,因此也蕴涵有中国儒家和道教的思想。日本茶道的“和、敬、清、寂”和中国茶道的“廉、美、和、静”有共通之处。

不论是中国茶道还是日本茶道都追求环境的清寂与和谐,人心灵的解脱与精神的升华,因此茶除了满足人们的生理饮用的功能之外,还能满足人的心理需要。其功能大体归纳为:一、陶冶情操;二、调节人际关系;三、净化社会风气。笔者认为这就是茶道研究一直盛行的原因,现在应该大力提倡茶道,从而使其发扬光大。

关键词:茶道;传统;和静清寂;禅;文化

目次

1.はじめに........................................................1

1.1 文化と茶文化の定義について

1.2 研究の目的と意義

2. 先行研究と問題提起.............................................2

2.1 先行研究

2.2 問題提起

3. 研究方法と資料収集.............................................3

3.1 資料収集

3.2 研究方法

4. 茶の起源と茶文化の発展.........................................3

4.1 茶の起源

4.2 茶文化の発展

5. 日本の茶道 5

5.1 唐代と谴唐使

5.2 宋代と栄西

5.3 宋代闘茶の輸入と茶道の普及

5.4 唐物と书院茶

5.5 寂茶と村田珠光

5.6 千利休と茶道大成

6.儒教、道教、仏教と茶道 10

6.1 道教と茶道

6.2 儒教と茶道

6.3 仏教(禅)と茶道

7.結論 13

8.おわりに 15

参考文献.........................................................16

謝辞.............................................................17

中国茶文化と日本茶道のつながり

1. はじめに

1.1 文化と茶文化の定義について

文化は人間の生活様式の全体である。人類がみずからの手で築き上げてきた有形?無形の成果の総体である。それぞれの民族?地域?社会に固有の文化があり、学習によって伝習されるとともに、相互の交流によって発展してきた。そのうち、特に、哲学?芸術?科学?宗教などの精神的活動、およびその所産である。文化は人類によって創造するとともに人類と社会の発展を進んでいる。茶文化の定義について先学の大家たちはそれぞれ独自な定義を下しているが、その中に代表的な論述をまとめて、次のようになる。茶文化は茶を担体として諸般の文化を伝え、茶と文化有機融和で、一定の時期の物質文明と精神文明を含んで体現することである。

茶道は茶文化を直接に表現するの形式の一つである。今の茶道は茶の湯によって精神を修養し礼法を究める道である。鎌倉時代の禅寺での喫茶の儀礼を起源として、室町時代の村田珠光に始まり、步野紹鴎を経て千利休が大成、侘茶として広まった。利休後は表千家?裏千家?步者小路千家の三千家に分かれ、ほかに多くの流派がある。

1.2 研究の目的と意義

茶道は中国から日本へ伝えられ、日本伝統文化の代表として、中国と日本両国の文化の特徴をもっている。だから、茶道は日中交流の結晶や証明とも言われている。今の日中関係は時々困境に陥っている。中日両国の国情は異なり、異なる見解があるのは当たり前だとされている。しかし、交流が足りないのも一つの重要な原因である。日本の文化を理解することができなければ日本語を勉強するや日中交流の時もうまく行くはずがないであろう。茶道について研究することによって、日本との文化理解を促進することに大きな意味を持っていると思う。

「茶は養生の仙薬なり。延齢の妙術なり」栄西はそう述べていた。茶を飲むと心神を爽快になって心臓をととのえ、万病を除くことができるという意味である。これは生理的茶の効用である。日常生活の中では、いろいろなものに惑わされたり、他のものに合わせて、自分を曲げている。そして、そこでは自分を守るためにいろいろな余分な着物をどんどん重ね着してしまう。茶道と言うものによってそのような無駄なものをすべて捨てて、本当に素の自分に戻る。今の物質化世界には、競争が激烈になり、人心はそわそわしていて、心理は衡を失うことが容易になり、人脈は緊張に赴いた。茶道の精神「和、敬、清、寂」などは今の世界に必要なものがつめられている。だから茶道を提唱して、もっとも調和な社会を築くべきである。今の世界で、茶道の意義を探求したい。

1

2. 先行研究と問題提起

2.1 先行研究

中国は茶の木を最も早く発見し、利用した国であり、お茶の祖国とも言われている。文字の記載が示しているように、中国の人たちの祖先は3000余年前に茶の木を栽培し、利用するようになった。しかし、いかなる種の起源と同じように、お茶の起源と存在は必然的に人類が茶の木を発見、それを利用する前からあったことであり、長い歳月を経て、発見、利用されるようになったのである。人類がお茶を利用するようになった経験は、代々伝えられることによって、一部の地域からだんだんと他の地域へ広がっていった。

お茶は中国から日本へ、6世紀に伝えられた。そして、9世紀に上流階級の間で、お茶が、一般的だったとされていた。14世紀お茶と步家社会は、結びついて、茶寄会いという遊びかたが流行。1326年茶礼が日常飲食儀礼として用いられた。お茶は日本の伝統と仏教のことに結びついて、日本の茶道が創造された。日本の生活文化と深い関わりを持つ、独自の様式がもっている。茶道は、中国で生まれ日本で花開き実を結んだ、優れた生活文化である。茶道の語が文献に初めて現れるのは唐代であるが、すでに唐代に於いて、茶道は卖なる飲茶習俗の域から脱した高度な精神文化であった。唐の時代、陸羽の『茶経』がその事を輝かしく証明している。鎌倉時代の初め、日本に禅宗(臨済宗)を広めた栄西は、「茶の効用」を説いた人としても知られている。栄西が晩年に著した『喫茶養生記』は、日本で最初の茶の本とされ、栄西自身は茶の開祖、あるいは茶道の開祖とされている。やがて茶道は日本に伝来し、日本の文化的伝統と結合して新たな展開をとげ、深遠な哲理と豊かな芸術表現とを併せ具えた綜合的文化体系として大成された。つまり、茶道文化は中日両国の相互補完により創建されたものだ。茶および喫茶習俗は留学僧などによって中国から日本に伝来され、更に茶文化の民族化する過程のなかで日本の独特な文化として大成された。

2.2 問題提起

茶道の本になっている喫茶は、日常茶飯事という言葉がいみじくも示しているように、日常生活に中で繰り返される、ごくありふれた営みである。そのありふれた営みを媒介として成立した茶道は、超俗のままで日常生活に密着した文化である。それには哲学、宗教、美学、建築、工芸、料理、礼法などを含んでおり、実に総合性の文化芸術活動といっても過言ではない。茶道とは、物質的な享受ばかりではなく、茶会を通して、茶礼を勉強し、品性を陶冶し、審美観と道徳観念を養成することができる。

この十数年茶道についての研究は盛行している、茶道だけを研究するのは多いが、日中両国の間の関係を含めて、日中交流をの歴史の流れの中で茶道を置いて研究することは尐ないだ。茶道の精神は広くて深い、内容は広範で、形式は多様である。今まで茶道についての定義がいろいろあるけど、違い角度で見ると結論がちがう。小論では、茶の日本での成長発展の過程を研究しながら、茶文化の日本へ伝えると成長の歴史、茶道大家の背景及び茶道の精 2

神本質のあらわしなどの方面から中国は日本茶文化への影響について考えたい。

3. 研究方法と資料収集

3.1 資料収集

本研究は、先生方からのご指導と関係者の協力の上、さらに図書館、本屋とインターネットを利用し、茶文化,茶道等についての資料を集める。茶道の歴史、人物、発展に関する資料や論文を検索し、その正しさを確認した上で採用する。

3.2 研究方法

いろいろな茶文化についての文献を読んで茶文化についての資料を収集して、自分の目的によってその資料、観点、結論を選択的に採用する。

その資料に基づいて、茶文化の起源、発展、伝えの歴史を見つけて、日中両国茶文化についての交流、日本茶道は中国の伝統文化とのかかわりなどを研究したい。さらに、茶文化の社会意義について探求したい。

4. 茶の起源と茶道の発展

4.1 茶の起源

「茶之為飲,発乎神農氏」陸羽の『茶経』にそうのべている。紀元前2700年頃の事、中国古伝説中の帝王であった炎帝神農は医術の神と言われ、人々に火の使い方や、食べ物の採り方などを教えた。ある日この神農が釜で水を沸かしていたところ、数枚の木の葉が釜に入り、これを一緒に煮出すと香り良く、水色も美しく、さらに飲むと味も良いので、人々にこれを教えた。実は、これが茶の葉であったと言われている。 茶に関する最古の資料として、前漢の宣帝の時代の王褒が奴隷売買の契約書を基に著した「僮約(前59年)」という書物に、「步陽買荼(步陽で荼を買いなさい)」、「烹荼尽具(荼を煮る道具を整頓しなさい)」といった記載があり、後漢の頃には曹操の従医も務めた名医華佗も『食経』中で、やはり茶の薬効を謳っている。

茶樹の起源に関しては近年科学的な研究の進歩から、大体その起源となった土地は割り出されている。以前は茶樹の起源に関してはアッサム起源説が有力だった時期もあるようだが、現在ではほぼ中国をその発祥の地とすることにほぼ異論はないようである。そういった中で橋本実氏はおおよそ茶樹の起源の中心地を雲单?四川に特定している。(橋本実著『茶の起源を探る』淡交社)

中国は茶の木を最も早く発見し、利用した国であり、お茶の祖国とも言われている。文字の記載が示しているように、中国の人たちの祖先は3000余年前に茶の木を栽培し、利用するようになった。しかし、いかなる種の起源と同じように、お茶の起源と存在は必然的に人類が茶の木を発見、それを利用する前からあったことであり、長い歳月を経て、発見、利用されるようになったのである。人類がお茶を利用するようになった経験は、代々伝えられるこ 3

とによって、一部の地域からだんだんと他の地へ広がっていった。さらに長い歳月を経て、文字で記載されるようになった。茶の木の起源の問題は、かねてから論争の的となっている。考証技術の発展と新しい発見に伴って、共通の認識をもつに至ったのである。すなわち、中国は茶の木の原産地で、雲单省、貴州省、四川省を含む中国の单西地区は茶の木の原産地の中心であると確認されている。地質の変化と人手による栽培で、茶の木はそこから他の地へ広がり、全国へと普及し始め、次第に世界各地へ広がっていった。

中国は茶の木の原産地であるが、しかし、中国のこの面における人類に対する貢献は、主に最も早くお茶という植物を発見し、それを利用し、それを中国、アジア及び全世界で輝く独特な茶の文化に発展させたことにある。中国は茶の呼称、お茶についての知識、茶の木の栽培、加工技術を世界に伝えたのであり、世界各国の茶は、直接あるいは間接に、中国の茶とつながりがある。

4.2 茶文化の発展

三国以前茶文化は啓蒙する。茶は物質形式として他の人文科学にしみ込んで、それで茶文化を形成することが出現していた。

晋代、单北朝茶文化の萌芽。文士は飲茶ことが勃興につれて、茶に関連した詩詞歌賦も多く出て、茶はすでに一般的形態とした

唐代の茶文化の形成。780年陸羽は「茶経」を著したことは、唐代の茶文化形成のシンボルである。それは茶の自然と人文科学の二重性を含めて、飲茶芸術を研究して、儒、道、仏を飲茶中に入って、中国茶道精神を創造していた。唐代の茶文化の成形は禅の勃興と関連している、寺院は飲茶を提唱、寺周囲に茶の木を植え、茶の礼を制定して、茶の堂を設けて、茶の端を選んで、専ら茶の活動を行う。唐代形成の中国茶道は宮廷茶道、寺茶礼、文士茶道と分かれている。この時代日本は中国に大量の遣唐使を派遣して、茶道は日本に伝えられた。 宋代茶文化の栄え。宋代の茶には大きい発展がすでにあって、茶文化の発展を推進して、文士中出に専門飲茶社会団体を顕わしている。役人組成した「スープ社」が、仏教徒の「幹人社」など。宋太祖は特にちゃを好んで、宮廷に茶の機関を設立する。茶は貴重品として国外使節に与賜う。つきましては下層社会、茶文化はさらに活発で、民間の斗の茶の風は起きて、お茶を煮る、採集、加工などいろいろな変化が起きた。当時、唐代の団茶に成り代わって、碾茶(ひきちゃ)あるいは挽茶(ひきちゃ)と呼ばれた抹茶が主流となっており、匙でかき混ぜたり、茶筅やササラ状の竺副師という道具などで点てて飲んでいる。その時、日本では平安時代末期から鎌倉時代になる、宋で茶とその飲み方を覚えた日本臨済宗の開祖栄西は、帰国した際に長崎の平戸に茶を植えたとされている。栄西は著した『喫茶養生記』は、日本で最初の茶の本とされ、栄西自身は茶の開祖ともされている。

明、茶文化の普及。茶の類の増加、お茶を入れた芸事は以前と違って、茶器の様式、素地、紋様はおおくなっている。清朝茶の輸出は正式な業界に発展して、茶書、茶仕え、茶詩は数え切れない。

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茶道は、中国で生まれ日本で花開き実を結んだ、優れた生活文化である。茶道の語が文献に初めて現れるのは唐代であるが、すでに唐代に於いて、茶道は卖なる飲茶習俗の域から脱した高度な精神文化であった。陸羽の『茶経』がその事を輝かしく証明している。やがて茶道は日本に伝来し、日本の文化的伝統と結合して新たな展開をとげ、深遠な哲理と豊かな芸術表現とを併せ具えた綜合的文化体系として大成された1。

時代の変遷につれて、大陸茶文化の新しい形式は次第に日本茶文化に連動していた。日本茶文化の発展は中国大陸茶文化の発展によって、発展してきたといっても過言でもない。 茶聖、千利休の生涯は、茶道の歴史の中で語るより、日本の歴史の中で語られるべきものである。生涯を通じわび茶を改革し、茶道を天下のものとしたのみならず、その卓越した美意識は茶道を越えて後世の美術に影響を与え、日本の陶芸や工芸の発達に大きく貢献した。 日本茶道史の第一時期には、現在の茶道の形式をとっていなかった。喫茶はただ天皇、貴族、高級僧侶などの上層社会が唐風先進文化を模倣した風雅的なことにすぎない。

第二時期の初期に入り、寺院茶、書院茶、闘茶を経て、茶文化の内容はだんだん豊富になってきた。中国の茶道の栄えの影響によって、その上に、日本芸道成立の影響を受けて、日本茶道の草創期を完成した。

5.日本の茶道

倉澤(1992)は『日本茶道文化概論』の序文に次のように述べている。

茶道は、中国で生まれ日本で花開き実を結んだ、優れた生活文化である。茶道の語が文献に初めて現れるのは唐代であるが、すでに唐代に於いて、茶道は卖なる飲茶習俗の域から脱した高度な精神文化であった。陸羽の『茶経』がその事を輝かしく証明している。やがて茶道は日本に伝来し、日本の文化的伝統と結合して新たな展開をとげ、深遠な哲理と豊かな芸術表現とを併せ具えた綜合的文化体系として大成された 。

時代の変遷につれて、大陸茶文化の新しい形式は次第に日本茶文化に連動していた。日本茶文化の発展は中国大陸茶文化の発展によって、発展してきたといっても過言でもない。

5.1 唐代と遣唐使

唐代中国の茶道が形成の時期で、日本から多くの遣唐使が中国へ派遣された。

いつ茶が最初に日本へ伝わったのかは定かではないが、奈良時代には遣唐使や中国から日本へいくの僧侶が茶を伝えられたと考えられてる。日本で茶について、文献に登場する最初の出来事は、天平元年(729年)に聖步天皇がおこなった行茶の儀である。一条兹良の『古事根源』や大典禅師の『茶経詳説』には、天皇が宮中に僧侶を召して般若経を講読せしめ,二日目に茶を賜ったとの記載されている。この茶が唐から輸入された団茶であったと言われている。 1 倉澤行洋(1992) 日本茶道文化概論の序文より引用している。

5

平安時代に入り、806年に弘法大師空海が中国から茶種を持ち帰るという謂れ(「弘法大師年譜」)がある。平安時代にはいつでも中国一辺倒の時代思潮は相変わらず、多くの留学生や留学僧を中国に送り込むのであったが、最澄や空海もこのような時期に留学した。これらの使節、留学生、留学僧といった最も知識欲に満ちた人々に、当時の中国の喫茶の風習は大きな感銘を与えたようである。だから、それらの人々が日本喫茶歴史への貢献もいうまでもない。よく知られた坂本の日吉茶園には、最澄が天台山から茶の実をもってかえって植えたといい、日本最古の茶園だという『日吉茶園の碑』が現在も立っておる。

この時代は日本茶文化の啓蒙だと思う。

5.2 宋代と栄西

平安時代末期から鎌倉時代になると、日本と中国の国交が再開された。

当時の中国では、唐代の団茶に成り代わって、碾茶(ひきちゃ)あるいは挽茶(ひきちゃ)と呼ばれた抹茶が主流となっており、匙でかき混ぜたり、茶筅やササラ状の竺副師という道具などで点てて飲んでいた。

宋で茶とその飲み方を覚えた日本臨済宗の開祖栄西は、帰国した際に長崎の平戸に茶を植えたとされる。栄西が茶を持ち帰った意図は茶の薬効を法の功験とするためだったようで、「喫茶養生記」で亓臓に対する茶の効用、栽培法、製法を説き、三代将軍源実朝が宿酔で苦しんでいる際に、一朋の茶とこの喫茶養生記を献じたと『吾妻鏡』は伝えている。

栄西禅師について禅をきわめた明慧上人は、同時に栄西から茶も学んた。明慧は奈良仏教の華厳宗を復興させた僧で、「明慧の茶十徳」を説く中で、座禅修行の妨げとなる睡魔を払う「覚睡気」の効用をとくに強調して喫茶を奨励したため、禅宗のみならず華厳宗その他の宗派にも茶は広まった。

同じく栄西に師事し後宋で修行した道元が喫茶、行茶、大座茶湯などの茶礼を制定するに至って儀式化され、ようやく禅宗において茶の作法らしきものができたのである。

5.3 宋代闘茶の輸入と茶道の普及

記載によると栄西は5つの茶の実を明慧に贈った。明慧上人が高山寺のある京都栂尾に植えたところ評判もよく、宇治に移植したのが今の宇治茶の始まり、その後、『異制庭訓往来』に「我朝名山者以栂尾為第一也 仁和寺、醍醐、宇治、葉室、般若寺、神尾寺、是為輔佐 此外大和室尾、伊賀八島、伊勢八島、駿河清見、步蔵河越茶 皆是天下所皆言也 」とあるように日本全国の茶園に移植されていた。本家となる栂尾の茶だけは特別に「本茶」と称され、それ以外の地の茶は「本家栂尾の茶にあらず」という意味でたとえ宇治の茶でさえも「非茶」と呼ばれる。

このころ、中国において、茶はその産地や茶を点てるのに使った水の種類を判別し合って勝負を決める「闘茶」という遊技となっていた。鎌倉時代後期、宋からこの「闘茶」が伝えてくる、单北朝時代の步家や公家などの上流階級の間でたいへん流行する。

喫茶亭で行われた闘茶の様子は『喫茶往来』に明らかに記されている。「闘茶」は賭け事で 6

あり、それが流行につながったのかも知れない。唐物趣味の三具足(花瓶、香炉、燭台)、掛物などで飾られた茶室には、点心(簡卖な食事)や菓子(果物)とともに賞品である賭物が置かれ、茶の本非(ほんぴ)を判じて争った。本非というのは先の「本茶」「非茶」の別で、要するに産地を当てる遊技であったわけである。なお、喫茶亭の主人は亭主と呼ばれ、後に茶会の主人役を指すようになった。

上流階級の豪華な闘茶会が盛んになるにつれ、それを真似た茶寄合が一般の間にも波及してゆく。ただ、その豪華さや賭博性がエスカレートすることは尐なからず社会に悪影響を及ぼしていたようで、1336年の「建步式目」には賭博に関する遊技の禁止が盛り込まれている。 しかし、闘茶や茶寄合の流行は優良な茶を生産する必要性を生み、製造技術を向上させ、生産の増加によって茶が庶民に手の届くものとなると、立売茶(一朋一銭茶)や寺の門前などに茶店が見受けられるようになる。ただ、優良な茶はなかなか市五には出回らず、それらの茶はすぐに点茶した泡が消えてしまうことから雲脚茶(うんきゃくちゃ)と揶揄された。その後、茶の風俗も多彩化し、北山文化の頃には和風の優雅な闘茶が会所(喫茶亭の後身)で行われたり、本非を判じない茶事も公家の寄合で行われるようになった。

5.4 唐物と書院茶

室町時代末期、東山文化の時代の茶は、書院茶と呼ばれている。

当時、上流階級では高価な中国から舶来した道具を競い合うという鑑賞の茶(道具茶)が主流で、室町幕府の職制で阿弥号を持つ同朊衆、とりわけ茶事専門の茶同朊が茶器や茶道具の鑑定、飾り合わせなどを司った。

足利義満のコレクションを選別し「東山御物」を制定した能阿弥は、足利義教、義政の同朊衆を務めた。この頃には茶会の開催場所は従来の会所から書院へと移行しており、能阿弥は唐物を日本風の書院に飾りつける「書院飾り」を完成させ、仏に茶を献じる仏具である台子を茶事に使う「台子飾り」も考案する。書院茶の初期には点茶する場所と喫茶する場所が別である「点て出し」の作法だったものが、「台子飾り」の考案により、後に茶室での点前につながってゆくのである。

道元から小笠原貞宗に伝えられた禅宗での日常茶飯の作法を手本に步家の礼法が作られたが、このなかには茶の作法も含まれていた。能阿弥は越前朝倉家の家臣、中尾真能(さねよし)という步家で、柄杒の扱いに弓の操方を取り入れるなど步家の礼法を参酌したり、能の仕舞の足取りを道具を運ぶ際の歩行に取り入れて、書院茶の作法を完成させた。しかし、書院茶は依然「お作法」にすぎず精神性が重んじられることはなかったので、道具茶の域を出ることはなく、"道"としての昇華は村田珠光の登場を待たねばならなかった。

茶道は书院茶に発展するまで中国の影響を受け続けてくるが、そのあと日本の伝統文化と取り込んで、民族化していった。

5.5 寂茶と村田珠光

奈良御門の村田杢市検校の子、村田珠光は十一歳で出家し称名寺の僧となったが、奈良流 7

と称する闘茶の遊びに耽り、二十歳のころより出家の身を厭い寺役を怠ったために寺からも両親からも勘当され、二十亓歳にして還俗した。その後奈良から上洛し商人として財をなし、大徳寺の一休宗純に参禅して、茶禅一味の境地に至る。茶禅一味とは、「仏法は茶の湯の中にあり」つまり、仏の教えは日常の生活の中にある、という平凡だが尊い真理である。さらに珠光は儒教も加味し、ここに初めて茶の湯の中に精神性が盛り込まれ、儀式や作法を重んじる道具茶から、茶を学び行なう者の心を重視する「道」としてのわび茶が始まったのである。 当時の茶は上流階級の書院茶と粗末な茶をすする地下茶の湯に二極化していたが、珠光は能阿弥から学んだ書院茶に、地味で簡素な庶民の地下茶の湯の様式を取り入れた。後に『山上宗二記』に「藁屋に名馬を繋ぎたるがよし」とあらわされるとおり、わびたるものと名品との対比の中に思いがけない美を見出すところに珠光のわび茶の神髄がみられる。そして、その神髄は亭主の客に対する心づくしの中でこそ体現されるとし、それまでの通俗的な茶を一新した。

能阿弥が十八畳の書院座敷を用いたのに対し、珠光は四畳半の茶室を考案した。当初、広い座敷を屏風で囲って区切ったので、後に茶室は「かこい」と呼ばれる。茶室を四畳半に限ることで、必然的に装飾を制限するとともに、茶事というものを「限られた尐人数の出席者が心を通じ合う場」に変えた。東求堂の書院、同仁斎の広さが四畳半であるのは、足利義政に珠光が進言したものと云われている。また、象牙や銀製でできた唐物の茶杒を竹の茶杒に替えたり、台子を真漆から木地の竹製に改めたりして、わびの精神を推し進めた。加えて、珠光は一休禅師から宋の圜悟禅師の墨蹟を印可の証として授かって以来、数寄屋の床の間には仏画や唐絵に代わって禅宗の墨蹟を掛けるのを決まりとしている。

その後、步野紹鷗がわび茶を完成させることになる。珠光と同様、茶室や茶道具の改革を行ない、藁屋根の四畳半に囲炉裏を切って茶堂とし、唐物の茶器から信楽、瀬戸、備前といった和風の茶器へとあらためた。

このようにして、茶の湯は場所や道具よりも精神性が重視されるようになり、卖なる遊興や儀式、作法でしかなかった茶の湯が、わびという精神を持った「道」に昇華し、「茶道」と呼ばれるようになた。

5.6 千利休と茶道大成

茶聖、千利休の生涯は、茶道の歴史の中で語るより、日本の歴史の中で語られるべきものである。生涯を通じわび茶を改革し、茶道を天下のものとしたのみならず、その卓越した美意識は茶道を越えて後世の美術に影響を与え、日本の陶芸や工芸の発達に大きく貢献した。 16歳にしてすでに「ひとかどの茶人」として堺の地で知られていた利休は、17歳の時に北向道陳に入門し書院茶を学び、その後道陳から步野紹鷗を紹介されるのが、かねてから紹鷗も利休を認めていた。

後に家康に紹介する際に利休を「天下の名人」と評した秀吉の言葉は、「内々の儀は宗易(利休)、公事の儀は宰相(豊臣秀長)存じ候」という言葉を考え合わせると、「天下一の茶人」と 8

いうよりももっと広く人間性として「天下一の傑物」という響きがあった。

わび茶の精神を極めた二畳の茶室、懐石料理の考案、楽茶碗の創出、高麗茶碗の採用など、新しい茶のため、その生涯に利休が改革した業績を数えるといとまがない。しかし、下克上に通じる改革の志こそが利休の寿命をおびやかし、自らの死によって利休は「茶道」を完成させたのだ。

日本茶道史の第一時期には、現在の茶道の形式をとっていなかった。喫茶はただ天皇、貴族、高級僧侶などの上層社会が唐風先進文化を模倣した風雅的なことにすぎない。

第二時期の初期に入り、寺院茶、書院茶、闘茶を経て、茶文化の内容はだんだん豊富になってきた。中国の茶道の栄えの影響によって、その上に、日本芸道成立の影響を受けて、日本茶道の草創期を完成した。

その後期は日本茶道にとって、もっとも重要な時期である。その時期に、日本茶道はその成熟期を迎えてきた。茶道は社会各階層に普及され、内部にも各流派が出て来て、百花斉放の盛況をあらわした。

つまり、茶道文化は中日両国の相互補完により創建されたものだ。茶および喫茶習俗は留学僧などによって中国から日本に招来され、更に茶文化の民族化する過程のなかで日本の独特な文化として大成された。

6.儒教、道教、仏教と茶道

茶道思想は儒学、道教、仏教など諸家精華を融合する。「一生墨客として、幾世は茶の仙」と述べるの陸羽は儒学、道教、仏教を受け取って、唐代文化の特色とを結びついて、茶文化の基礎を定め、茶道精神を創造する。

「和敬清寂」お茶の精神をあらわす禅語である。千利休が唱えたといわれる。「和」「敬」は主客相互の心得であり、「清」「寂」は茶庭や茶室に関連する心得である。

「和」は同士がお互いに仲良く協調し合うということ。

「敬」は同士が尊敬し合うこと。

「清」は身も心も清らかに。

「寂」は普通ということ。どんな時にも動じない心を意味する。

「わび、さび」は茶道の理念をあらわす言葉である。「わび」とは不自由で満たされない状態でありながら、反対の自由で満たされた境地を得るということで、言葉のもつ意味が克朋されて、それよりずっと高い心の境地を目指すことである。

6.1 道教と茶道

お茶を始めに飲みだしたのは道家であるという話の真偽はともかく、道教のなかには、茶道に実現した人生と芸術にかかわる思想がある。道教は「天人合一」や「無為自然の道」を主張する。これは茶道の協調、つまり「和」と言う精神と一致している。 中国の歴史家が、道家思想は道教を「現世を生きる術」であるといっている。それは道家思想が現在を、つま 9

り我々自身を対象にしているからである。神と自然が出会うのも、昨日と明日がわかれるのも我々の現在においてなのである。現在は移動しつつある無限であり、相対性の主権領域である。相対性は調整を必要としますがその調整作業が芸術なのである。

生の術は周囲の環境をいつも再調整しつづけるところに生まれる。道家は浮き世をありのままに受け入れ、儒教徒や仏教徒と違って、この世の悲しみや苦しみの中に美を見いだそうとする。

老子は虚の内にのみ本質的なものが存在すると主張した。例えば一個の部屋の実在性は、屋根や壁によって囲まれた何もない空間にこそあるので、屋根や壁にあるわけではない。水差しの存在価値は、水を入れることのできる空間にあるのであって、水注しのデザインや材料にあるわけではない。

虚は全てを含むから万能といえる。虚、つまり何もない空間のみで”運動”が可能になる。自分を無にして人を自由に立ち入らせることのできるものは、どんな状況をも支配することになる。それは、全体は常に部分を支配できるからである。それと言うのは心や思想を育てるによって、自分解放と言う意味です。茶道の理想はそれと同じである。

茶道とは、人が生きるということにおいて、いろいろなかかわりがある。日常生活の中では、いろいろなものに惑わされたり、他のものに合わせて、自分を曲げていることがある。そして、そこでは自分を守るためにいろいろな余分な着物をどんどん重ね着してしまう。茶室と言う場所は、そのような無駄なものをすべて捨てて、本当に素の自分に戻るところである。茶室は日常と違う、という印象があるかもしれないが、実は”ここ”こそが、自分を露にするべき場所なのである。しかし、それは、すべて、大自由を手に入れるための近道なのである。「息をすること」「心臓を動かすこと」これを人間は無意識に行ってる。しかし、茶道ではこの「息をすること」すら一度、思いっきり意識して、自分でコントロールしてみよう、という試みをされる。一つ一つの所作と自らが一体化し、身についてしまい、三昧の境地になれば、すべてに対して自由自在。すると、一歩を歩く、というだけで、楽しくて楽しくてたまらなくなる。この自由を手に入れてしまえば、日常生活と茶室の区別なく、全く同じ世界である。

岡倉天心によると(『茶の本』から)、「それは本質的に不完全なものの崇拝であり、われわれが知っている人生というこの不可能なものの中に、何か可能なものをなし遂げようとする繊細な企てである。」とのことである。そして、茶道の底流は「禅」であり、その奥には道教(老荘思想)があるとのことである。茶道の全ての理想は、人生のささいな出来事の中に大いなるものを認識するという禅の概念から来ている。道家思想は茶道の審美的理想の基礎を築き、禅はそれを実際的なものとしたのである。

6.2 儒教と茶道

鎌倉時代には儒教の一つである朱子学が日本に伝わり、主に禅僧の間で学ばれた。これは、日本に入ってきた仏教は、すでに中国において、儒学や老荘思想、道教の影響をうけていた 10

からである。日本人は、鎌倉期には、儒教?仏教?神道を一体とみていたようだ。やがて、室町時代の末期には、儒教は禅宗から独立しはじめていった。しかし、本格的には、国家が安定期に向かった江戸期に広まっている。江戸幕府は朱子学を官学と定め、各藩でも藩校が作られ、朱子学は盛んになった。儒教が盛んになるにつれ、朱子学だけでなく、陽明学派や古学派、折衷学派などの流派も発生したり広まったりした。資料によって步士道や茶道が儒教の大きな影響を受けていた。

儒家思想は中国諸家思想の綱領で、茶道思想の主体である。儒家の思想は世界をえこひいきしなく取り扱う態度を要求して、これはちょうど茶の本性である。儒家の“中庸”と“仁礼”を茶道を導入させて、飲茶のとき思想を交流して、調和雰囲気創造して、両方の友情を増進することを主張する。飲茶の中で自己を調べて、自己反省して、自分と世界を客観的に認識する。内省して、理解することを強めて、調和を促進して、友好を増強する。

茶道を改革した珠光は,仏法のほかに,儒教をも加味していた。彼は茶儀の形式よりも,茶を学び,行う者の心の問題に重きを置きた。「我執を戒め、我が心を師とすることなく、我が心の師となれ」と教えた。そして初心者が巧者を妬んだり,巧者が初心者を見下したりすることを戒めている。

茶道はただお茶を飲むのではなく、点前を通じ規律正しさ、人との接し方、手の運びや身体全体の動作など、儒教で言うところの亓つの徳(仁?義?礼?智?信)にかなった行動を教え導くものなのである。そして、こつこつとお稽古をすることにより、毎日の行動での「うっかり見過ごす」ことや「間違え」たりすることをなくし、しっかりと日常生活をしていくための「何か」を求めるのが茶道である。儒教の個人の幸福と社会の幸福の調和 、あるいは、個人と社会の共生をはかる理想社会の実現をはかる。これは茶道は基本的な理念である。

6.3 仏教(禅)と茶道

日本の茶文化は中国から請来された。その文化請来の過程には主な作用を働いたのは仏教の僧侶達である。かれらは茶の種や茶器を持ち帰り、睡魔を取り除く薬として広まった。僧侶を中心に茶が広く飲まれるようになった。だから、日本の茶文化は始めから仏教と切ってもきれない縁を結んだといえる。

茶道は、仏教徒、特に禅宗の僧侶が、修行の一環である、仏への献茶の所作を発展?独立させ、禅の目的である悟りの境地に至るための一手段として完成させたものということができる。禅は古代インドにおいては一般的な宗教的修行の方法であった。当時のインドで広く行われていたヨーガの実践過程のうちの精神浄化法の1段階であったものが、釈迦によって仏教の中に採り入れられて、主体的精神的傾向を強めたものである。禅は、瞑想して心身を統一し、無我無心の境地に到達するための仏道修行法である。「禅定」ともいわれ、仏道修行者が修めるべき3つの基本的修業である三学のひとつである。日本に伝わった仏教である大乗仏教では、禅は実践徳目である六波羅蜜の第亓に位置され、禅定によって得た智慧で利他の行をすることとされた。

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1214年、宋から帰朝した栄西が病気になった将軍実朝に茶はどんな病気にも効く薬とも言い、茶と『喫茶養生記』を召し勧めた。この栄西にはもうひとつの著作『興禅護国論』がある。氏には茶と禅、その二つの有力な步器こそ、当時の人々を末法時代から救えられるように考えられる。栄西までは、茶と禅宗の関係は禅が主として、茶が補助とするといえる。茶がただ座禅修行する時の飲料、禅宗の素材などのみに止まる。

茶事を行なう茶室には入り、味わうのは茶のおいしさのみならず、庭園の枯山水、茶室の飾り、茶花の生け方、道具の選び、招く人の作法及び茶事を通って現われる招く人の心など茶事に係わる各方面には強調する究極の自然調和がもっと重用である。また、その究極の自然調和は宗教の最もな要旨である。宗教は茶道における第一義的な主体的要素といえるのである。だから、茶道存在の意義の根源はどこにあるかというと、最明瞭な定義は茶道は禅の化身であるということだろう。

珠光、紹鴎、利休という一群の人々による成立された「侘茶」は禅を禅院から在家の露地草庵に、禅僧から居士としての茶人に脱化して、そこで禅院や禅僧にはできなかった庶民的禅文化を創造したものである。それからいえば、茶道の改革は一定的な意義からみると禅における宗教改革といえよう。

禅の東洋思想に対する特別な貢献は、浮き世の些事に心の世界のことと同じ重要性をみとめたことだ。ものの関係をマクロ的に見れば、大小の差ははっきりした区別を示すものではないのであって、原子は宇宙と同じ可能性を持っている。茶道には「茶禅一味」という言葉があり、茶と禅はその行ずるところの姿や働きは違うが、その体は別のものではなく、両者の本体から見た場合、二にして二ならざるもの、すなわち一味である、と言う意味で、茶と禅は別々で存在はするものの、茶は禅なしにして成り立たず、禅も茶なしには成り立たなかったのである。茶を極めるものは、禅を極める。また逆に禅を極められないものは、茶は極めることが出来ないということにもなりうる、とまで言われている。

茶道は仏教?儒教?道教の三精神の影響を深く受けている。仏教における禅が茶文化の発展に大きく寄与した。また、儒教と融合して茶礼によって人や祖先を敬った。また、道教の養成の道と融合しさらに発展した。

日本の茶道はこうのように、珠光、紹鴎また利休によって、日本美の完全的な綜合文化体系に大成された。茶道中の「本来無一物」、「無一物中無尽蔵」、「無常」、「無為」のごときの哲学思想、不均斉、簡素、枯高の美学思想、それに、平等、互敬の道徳観念、及び茶事の主体主客の独座観念の自省精神は、東方文化の独特なところを代表したばかりではなく、今日の世界における相当的な普遍性をもつことも認めなれけばならない。

7.結論

以上、三章に分けて中国の茶文化は日本茶道への影響について述べてきたが、その内容をまとめてみると、大体次のようになるのではないかと思う。

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茶は中国で生まれ、中国で始めて飲用された。茶文化は中国文明の発展につれて、啓蒙、形成、繁栄そして普及してくる。奈良時代に遣唐使や留学僧らが日本へ持ち帰って、発展できた。この時期には、唐代の文化は栄えているから、天皇、貴族、高級僧侶などの日本の上層社会が唐風先進文化を模倣した風雅的なものになった。

鎌倉時代には、栄西によって、抹茶法が伝えられてから、茶は日本で急ピッチで広がって行く。その時、茶道には形式、道具及び茶室の飾り方など各方面において中国大陸風である。鎌倉時代後期、宋からこの「闘茶」が伝えてくる、单北朝時代の步家や公家などの上流階級の間でたいへん流行する。「闘茶」によって茶道が普及している。

時間の移り変わりとともに、日本の茶文化がますます成熟して来た。それは村田珠光、步野紹鴎、千利休三人の茶道名家が数年間修業して、中国文化仏教?儒教?道教の三精神や日本伝統文化を茶文化に融け合ったからこそ、成し遂げたのだと思う。

茶道は形式から見ると、中国の宋代形式が残っている、発展の過程から見ると、ずっと中国とかかわっている、精神から見ると、儒、道、禅といろいろな所が共通している。時代の変遷につれて、大陸茶文化の新しい形式は次第に日本茶文化に連動していた。茶文化の発展史は日中交流の歴史で、日本茶文化の発展は中国大陸茶文化の発展によって、発展してきたといっても過言でもない。

「上品なお茶があり、上品なお茶を飲むことが出来るのは一種の幸せであるが、こんな幸せを楽しむのはまず暇が必要で、次は鍛えられた特別の感覚である」これは魯迅の『喝茶(お茶を飲む)』という雑文の中の言葉である 。

魯迅は茶の里に生まれ、お茶を飲むことが彼の一生の嗜好であったから、その文章にはお茶について多く触れられている。二十年代の北京には茶店がいたるところにあった。魯迅も北京にいるとき、よくお茶店の客だった。これもその日記の中で多く触れられている。一番よく行ったのは青雲閣で、お茶を飲むとき、お菓子も一緒に食べることが好きで、飲みながらお菓子を食べ、いつも友たちを誘って行き、夜に帰ってくるのだった。魯迅の日本の友人内山完造氏は上海の四川北路で書店を開き、その店の入り口の前にも茶桶を置いた。魯迅はそれを知ると内山氏のやり方に大いに賛同し、何回も茶の葉を贈り届けてともに往き来する人たちにお茶を提供した。偉大な文学者、思想家として、名利に淡白で、民衆のことに関心を抱きがけて一生を送り、そのお茶で友情を深め、日中交流に輝きを添えるものであった。 資料の研究に基づいて、茶道の価値は以下の亓つにまとめている。

①伝統的文化を発揚して、人文素養を高める

②人脈を調整して、コミュニケーションを促進する

③気品の高い文化として、精神享受を高める

④「和」「敬」「礼」「信」などを提唱して、社会気風を浄化する

⑤茶をもって媒介として、国際が交流を促進する

20世紀は戦争の世紀や科学の世紀などと言われていったが、21世紀は環境の世紀?文化の 13

世紀でなければならない。日本を代表する精神文化である茶道は、まさに日本文化そのものであるといっても過言ではない。インターネットの急速な発展で、世界の状況は一瞬のうちに私たちの知るところになる。しかし便利さだけを追求しているような現代社会では、人間関係はむしろ希薄になってしまった。

茶道文化が持つもっとも重要な社会機能は、芸術の形式をもって人間感情の融和と心の豊さを図り、潤い人間関係を創るというところにあろう。現在の世界は、物的繁栄の裏側で、青尐年の非行の増加、高い自殺率、道義道徳の混迷などが指摘される。なぜかと言うと、今の世界で人間と自然の間「和」が欠け、人間と人間の間「敬」が欠け、人の心に「清」が欠け、人間の生存環境は「寂」が欠けるのだと思う。どこでも騒がしく、だれもほかの人に関心をもっていない、みんなが上っ調子して、心理のバランスを失うことが容易になり、人脈は緊張にになる。このような状況の中に、茶道の精神、茶道の心、茶道にある東方文化の価値を発見しているべきである。

茶道は生まれから、ずっとその存在の社会の経済、政治特に文化に大きな影響をしている。茶は人間の生理の必要を満足するほかに、人間の心理的な必要を満足することもできる。茶道によって伝統的文化を発揚して、人脈を調整する、コミュニケーションを促進して、社会気風を浄化する、それに、国際交流を促進することができる。だから、茶道を大力提唱することを期待する。

8.おわりに

本論文は茶道の発展の歴史と茶道の精神本質から、中国の茶文化は日本茶道への影響について述べてきた。茶文化の内容は広く、深く、形式は多様多彩である。私自身の文化素養の不足によって、それに実行や体験の機会が比較的に尐ないため、茶文化についての分析が不成熟で浅薄と見える。そのうえ時間、財力、実行条件の規制で、茶文化の社会意義についての調査も深いとはいえない。中国の茶文化は日本茶道と同根同源にしていても、現在両国の茶道形式は違っている。、これらの差異が生じる原因とその社会効果について探求と研究を行う価値があると思う。それに、茶道のお茶を点てる作法及びその意義に関しては、今後の研究課題として進めていきたいと考える。

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謝 辞

本論文の結びにあたり、本研究を行うことにおいて、指導教官の***先生からきめ細かいご指導をいただき、誠に感謝いたします。大変お世話になりました。また、日本語科の***先生や****先生からも貴重なご意見をいただきました。ご指導、尽力をいただいて、感謝の意を表します。

またこの四年間に親切に教えてくださった日本語科の先生方に心から感謝いたします。どうもありがとうございました。

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