伊豆の踊子/川端康成のあらすじと読書感想
「伊豆の踊子」は、孤児根性でゆがんでしまった自分自身に嫌気がさした20歳の青年が、憂鬱から逃れるために伊豆を旅する物語です。青年は、途中で出会った旅芸人の一座と行程をともにします。一座の中の14歳の少女とのつかの間の縁が、青年の心に染み入ります。旅の途中、青年の心の中では少女に対する欲望が渦巻きます。少女は、無邪気に体を寄せて青年に対する好意を表します。しかし、幼なすぎる少女との間には何も起こりません。そんな少女との触れ合いをとおして、青年の心は癒されていきます。一座に見送られて船に乗った青年は、船の中で、人に見られるのも気にせずにぽろぽろと涙をこぼします。少女と出会ったわずかな時間の中で、青年は、過剰な自尊心や傲慢さから解放され、船室の同船者からの好意を自然に受け入れられるようになりました。
今回、「伊豆の踊子」を読み返してみて、改めて、短い作品なんだと実感しました。物語は、青年の5日間の旅の日程にそって進みます。その間に、さしたる事件が発生するわけではありません。偶然に道連れとなった旅芸人たちといっしょに数日を過ごすうちに、意固地になって取り繕っていた自意識が解けてなくなり、人生との和解を成し遂げたと思われる青年の姿が提示されるだけです。「伊豆の踊子」は、もともとは、もっと長い草稿の一部分だったようです。「伊豆の踊子」の中では、青年の出生や性格など、物語の背景となるべき物語はほとんど何も語られていません。「伊豆の踊子」では、旅の行程と、青年の目に映った美しい踊子、そして青年の行動と心理描写が語られているだけです。長編小説の一部分だけを切り取ったような短編で、さしたるストーリーの展開もなく、踊子の幼い美しさをとおして主人公の心に訪れた変化を描き、それを読者に納得させてしまうのは、さすがだと思いました。
健全な読書をオススメするコーナー。
本日は、川端康成の「伊豆の踊子」をオススメ。
最近のキッズたちに向けたこの、「表紙」のシリーズ。
近現代の作品のこの辺のものは、中身は結構シリアスな心理模写で、絵的な組み合わせが少し違うかなと思うような「異様とも言うべき心持ち」の主人公が多いです。名作の時代には名作の時代の匂い的なものと人々の感情があるのでしょうが、現代のキッズたちに通じる繊細さはありますけど。
(出てくるのは、高校とか大学とかの学生ですけどね)
今回の「伊豆の踊子」。
これは、比較的、「普通の感じ」の「超名作」というのが印象。
ですので、オススメ致しますが、表紙は、荒木先生。
JOJOって言えば、前述の、「異様とも言うべき心持ち」の主人公が出てくる作品で、そのクレイジー的な感じが面白いのですが、なぜ?普通な感じの「伊豆の踊子」に荒木画が使われたのか、なんとも謎でございます。青春の旅。
その旅を通して、自分というものを見つめ取り返していく作品。 繊細な模写と心持がグレートな作品。 この辺はJOJO的ですけどね。 旅の列車の途中にオススメします。青春ですね。
伊豆の踊り子』の読書感想
初恋はどんな感じだろうか。渋く、朦朧なのに、心に刻んだものである。昔であれ、現在であれ、変わりがない。踊子と小説の中の「私」もそうである。抱き合ったこともないし、キスもないし、別れる時に目つきまでもない。それにしても、その無邪気な初恋は永遠に伊豆半島に残った。
あの時代、芸者の職業はみんなに認められなかった。それは卑しいものだと思われた。しかし、芸者として生きている踊子のような人は絶対少なくない。彼らは小さなことで、満足ができる。たぶんその簡単に満足できる態度はみんなにじっと見つめられた。それにしても、単純な踊り子は勇敢に人々の考え方を変えてみた。それに小説の中で、「私」と踊子が愛情への憧れは心理描写によって現れた。
「伊豆の踊子」は美しくそして憂いの雰囲気を漂っている名作である。最初は伊豆の風景のことを描いてばかりではなく、繰り返し読むうちに主人公である一高校生の「私」の孤独がしみじみと思いやられるようになった。「私」が小説の最後、踊子と別れ、船で東京へ帰ったとき、ぽろぽろと涙を流したのも何となく理解できるようになった。たぶん「私」にとっては踊子ははじめて自分の心が理解できる血のつながりみたいなものを感じた人だったのかもしれない。母の愛のようなものであろうか。それを恋愛感情といってしまえば、やはり「私」は踊子に恋していたのであろうか。
「伊豆の踊子」はある夏に一高生の「私」が伊豆半島を旅行した。彼は偶然出会った旅芸人の一家とのことである。旅芸人の一家は五人で、40代の女が1人、20代の男1人、10代の娘が3人である。男と一番上の10代の娘が夫婦で、40代の女がその娘の親で、一番年下の娘が踊子で、男の妹である。もう1人の娘は雇いとい
った感じである。
旅芸人は酒の席で芸を売る人たちで、芸者みたいな真似をする。14歳の踊子は座り、太鼓をたたく。踊子は単純で、無邪気なイメージを与えてくれて、「私」は踊子が気になった。踊子も「私」を意識するらしかった。踊子の義理の母親は踊子が「私」に気があることをからかった。踊子は男として「私」が気になったのか。踊子は14歳で、まだ男を意識する年齢ではなかった。愛情はどんなものか分かるか。男より本、活動のほうに興味があった。一家の男と露天風呂にはいっているとき、遠くの風呂にはいっていた踊子が2人を見つけ、真っ裸のまま近づき2人に向かって手を振ったのは深いイメージを与えた。
旅芸人たちは立ち寄る村々で嫌われた。村の人々はその職業を認められない。露骨に村で「旅芸人村に入るべからず」という立て札を立てている。所詮彼らは川原乞食であったのだ。一般人とは別の人種と思われていた。
「私」の平等な態度で、踊子は心の扉を開いた。そのような差別がない生活はちょうど踊子が憧れるのである。したがって、柿を食べるときも、「私」が東京へ帰るときも、「私」は世話になった。すると、「私」と踊子はお互いの世界に入ってきた。それは旅芸人の孤独と自分の孤独が引き付けあい、恋というより、家族の間の愛情だと言っても過言ではかなろう。
そして、踊子を描写するのが素晴らしかった。踊子が笑ったり、悲しんだり、恥ずかしがったりする表情がすばらしく書いた。
川端康成の『伊豆の踊り子』は、二十歳の青年の初恋が描かれた小説として、日本人はもちろん、外国でも人気が高い作品である。その初恋の人は「美しい髪」と「美しく光る黒眼がちの大きい眼」を持つ美しい人で、純粋な心の、若い少女であり、初恋の対象としてふさわしい。でも、その恋はまだ広がっていないうちに、終わらざるをえなかった。二人の身分は差が大きいので、共感しやすくて、同情も喚起しやすい。それに二人とも大人の世界に入らないうちに、恋への憧れている時期である。
しかし、『伊豆の踊り子』は初恋を描くものだけでなく、旅を通じての「私」が心を淨化するものも描かれている。この小説のトップと言える「ほんとうにいい人ね。いい人はいいね」という少女の言葉を通じて「孤児根性で歪んでいる」し、「憂鬱に堪えきれない」「私」の精神が淨化されたと思われる。これは踊り子に向けた「私」の好意が自分自身に戻ってくることであり、このことから考えると、「私」は異性に対する愛より自身に対する愛を求めたのではないだろうか。その淨化は、踊り子と別れてから「涙がぽろぽろ流れた」ところで終わった。涙は小説の最初に登場した「杉の密林を白く染める」雨と比べるおと、はっきりと感じる。
『伊豆の踊り子』は高校生を通し、彼の特別な体験を描いた。実らない初恋だが、愛情よりもっと大切なものを得た。小説の最後は、「私」が生活費などが足りないので、東京へ帰らざるを得ないと書いた。愛し合っている二人は一緒にできないのは残念だと思うだ。しかし、「私」が伊豆に残しても、その恋はやはり実るできないだろう。
川端康成という有名な作家の小説「伊豆の踊り子」を読んで、深く感動された。
「不遇な人生を歩み、心がすさんでいた若い学生が旅の途中で、ある踊り子に出会い、その後をくっついて周り、踊り子一行と行動をともにすることになった。その後も、やはり踊り子一行と行動をともにしていたけれど、ついには別れの時がきた。だけど、踊り子たちと一緒に過ごしてきたことで、なんだか、心がスガスガしくなった。」という話だった。
私に一番深い印象を与えたところはあの踊り子のきれいさだ。 「踊り子は十七くらいに見えた。私にはわからない古風の不思議な形に大きく髪を結っていた。それが卵形のりりしい顔を非常に小さく見せながらも、美しく調和していた。 髪を豊かに誇張して描いた、 稗史的な娘の絵姿のような感じだった。」 人々が普通思うのと違って, とても清らかで美しい踊り子だった。だからこそ、 その踊り子とその話が大好きのだ。
その小説はまだ読み終わっていないけど、その中の哀感は感じられる。踊り子は当時卑しい職業だったので、人々に見下げられていた。あの若い学生も人生の不幸を体験していた。二人の主人公とも孤独と言えると思う。だからこそ、二つの孤独的な心がぶつかったらなんとなく故人のように親しくなれた。でも、現実は現実だから、結局離れてしまったところから見れば、悲劇だと言えると思う。川端康成の小説は哀感的小説だと言われるが、今度しみじみ感じた。
第二篇:伊豆舞女
《伊豆舞女》观后感
09英语非师范2班 2009124302 卢志锋
原来和文字沾上边的人都是不快乐的,他们的快乐像贪玩的小孩,游荡到天光却还依依不舍。 观看完《伊豆舞女》,我心里忽然冒出一点忧伤和颓废,也许是川端康成的忧郁和孤独让我感叹,也许是作品主人公与舞女轻烟似的青春,朦胧哀伤的初恋故事感染了我。 《伊豆舞女》讲述了这样一个故事:即将就读东京某高等学校的川岛趁开学前的暑假前往伊豆旅行,在乍晴乍雨的山道上,他遇到一群巡回卖艺的歌舞伎艺人,因被其中一个梳着古代发髻、背着大鼓的娇小玲珑舞娘吸引,他决定与他们一起上路,路上,他得知该舞娘叫熏。川岛不计歌舞伎艺人地位卑微,常邀请他们到他住的旅馆玩耍,而在和熏有过单独相处后,他更被其纯洁无瑕的美震撼,陷入矛盾中,一面为自己难以抑制的冲动而苦恼,一面为她在表演时可能受到侮辱惴惴不安。熏在两人的交往中,也渐渐生出真情。可是两人也只能是彼此生命中的过客。
舞女,主要是卖艺和陪酒的,面对的是窘态,更多的是无奈。有的舞女从事歌舞而非卖身,但是有的舞的生活情况不好,使得她们不得不卖身,于是有些舞女兼职卖身,直到最后舞女卖身成为了常见的事情。在《伊豆舞女》中,作品一开始就以缠绵之“雨”来表达“我”对舞女薰子的无限思恋,且以鼓声一息来暗示“我仿佛想透过黑暗,看穿这寂静意味着什么”,“我”心烦意乱,“那舞女今晚会不会被人玷污呢?”甚至“我”突发奇想:“就让那位舞女到我房间来住吧”。而结局的最后,女主角熏子遭受到被人玷污的悲惨命运,为这部电影抹上了暗淡的色彩,也折射了舞女为生活所逼无奈的宿命。
在日本,传统意义上的艺伎,在过去并不被人看作下流,相反,许多家庭还以女儿能走入艺坛为荣。因为,这不仅表明这个家庭有较高的文化素质,而且有足够的资金能供女儿学艺。这种观念在今天虽已不太多了,但艺伎在人们心目中仍是不俗的。实际上,能当上一名艺伎也确实不易。《伊豆舞女》中的主人公“我”始终对那天真纯洁、无邪的小舞女抱有一种美好的幻想,犹如天使一般。“我”始终与她保持着一种距离,不敢过分的奢求。在“我”的印象中,一直认为“她已经是十七、八岁了”,其实“她还是个小姑娘嘿”。但小舞女见“我”时的那种羞涩感和表现出来的朦朦胧胧的情意却总让我思恋,至而总让“我”向往着那纯洁的肉体。
舞女薰子纯洁天真的性情带给主人公的不只有爱情的美感,更多的是心灵上的净化的洗涤。小说中所描写的环境点滴,也在衬托着主人公的心境。重叠的山峰,秋日的木叶,流浪艺人轻敲的鼓点,舞女可爱的裙裾,一切都带有很浓郁的日本特色。黑眼珠的大眼睛闪着美丽的光辉,天真柔美的形象,毫无矫揉造作的羞涩。也许我也爱上了舞女薰子。客栈的老板娘说,舞女没有家,哪里有客人,他们就到哪里。或者更多的是,我可怜舞女薰子。 在与舞女分别后,主人公踏上新的旅途。在船上,当一个中学生看到他流泪,向他询问时,他很自然的回答了提问。“不,刚刚和人告别。”“让人家见到自己在流泪,我也满不在乎。”“我什么都不想,只想在安逸的满足中静睡。我的头脑变成一泓清水,滴滴答答地流出来,以后什么都没有留下,只感觉甜蜜的愉快。”在悲凉寂寞中,我能体会到忧伤的心灵已经变得平静自然。
短暂的旅程,无奈的分离,告别时甚至没有交织的眼神,有的只是真诚的爱慕,无言的忧伤和永远的怀恋。抛弃“卑贱的职业”,忘记不平等的待遇,细细回味情窦初开的羞涩和幸福。
参考文献:1.侯楚颖 《伊豆的舞女》读后感
2./view/1394209.htm 伊豆舞女 百度百科
3./view/3405361.html?wtp=tt#1 日本艺伎