日语致辞范文

时间:2024.4.20

尊敬する山田様及びご臨席の皆様:

この度、私どもは日本外務省のお招きによりまして七月22日成田空港に着き、二週間の訪問をいたしました。私どもは東京、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸、福岡をつ義つぎと訪問し、工場、企業、研究所、学校及び名所旧跡を見学し、各方面の諸先生型とも交流しました。ここまで、この二週間の活動が終わり、明日私共は帰国の旅に付きます。 本日、日本の友達に対する感謝の気持ちを表すために、返礼のパーティーを行います。ご多忙の中お越しいただく諸先生方に感謝いたします。

日本に滞在するのはわずか二週間で、「走っている馬の上から花見をする」ような感じはしますが、予期の訪問目標が達しました。これは諸先生方の心からのおもてなしとご配慮から切り離すことはできない。私は謹んで団員のみなさんを代表し、私共の訪問を応じる関係者の皆様、行き届くご接待をしてくださる友人の皆様を心から感謝いたします。 東京にいる間、村山先生がご多忙の中時間を作り、面会していただき、将来を見通すご見解を発表してくださいました。我々は先生の話から大いに利益を得て、これからの仕事の中にも大きく激しました。

「百聞は一見にしかず」ということわざのように、今回の訪問を通じて、我々は各方面から日本という先進国を見学し、様々なことを勉強出来ました。同時に、『バブル経済』が崩壊する直後の不景気から抜け出すため日本の友達の努力する姿も自身で見聞きし、心から尊敬しております。一方、中国は今WTOに加盟するいい時代を迎え、対外開放政策を引き続き推進することにします。日本の先進技術と巨大な資金は中国の発展に重要な意義があります。中日両国の各業界の友好と協力の関係が引き続き発展していくことを私は心から祈っております。

この旅の訪問を通じて、新しい友達が大いにできることは私共の最大の宝物です。山田先生を始めとする日本の友人の皆様が中国を訪問することを心から期待しております。 明日私共は帰国するようになり、ここで、再び日本の友人のみな様を心から感謝致しmす。 最後、中日両国の友好関係が永遠に維持するように、そして、山田先生とご在席の友人の皆様のご健康のために、乾杯しましょう。


第二篇:日语致辞集


1、新年のご挨拶 -20xx年を行動の年とする-

富山大学長 遠藤 俊郎

20xx年、明けましておめでとうございます。本年が皆様にとって幸多い、充实の年となることを願っております。今我が国は、政権交代による新しい経済刺激政策の導入により、閉塞感の強い社会状況からの脱却に期待が高まっています。しかし、その動きが発展的将来にどのような形でつながるかは尚不透明であり、だからこそ我々一人一人がどのように考え、行動するかが問われています。

富山大学は、明年20xx年に新川県師範学校の開設より数え創起140年、そして3大学統合10年目の節目の年を迎えます。法人化に加え統合という難題を同時に抱えた本学の現状は厳しく、安穏とした姿勢で対忚できる状況にはありません。歴史と伝統を継承し、時代の変化に負けぬ自力を培っていくことが、我々富山大学に今正に求められています。学長を拝命して1年10ヶ月、理事?役員?部局長ならびに多くの教職員皆様のご尽力やご支援に支えて頂き、一方で私は何を為すべきか、何ができるのか、悩みながら過ごしてきました。新しい年の年頭に当たり、知識、経験も乏しい未熟な私をこれまで支えてくださった皆様に改めて感謝するとともに、任期後半の2年余を富山大学の前進、発展のため全力で尽くすとの思いで行動することを肝に銘じています。

20xx年11月、皆様とともに「富山大学機能強化プラン-CHALLENGE 2014-」を作成し、「可視化?連携?行動」をプラン实行のための3ステップとして提示いたしました。教育?学生支援、研究、社会貢献、大学運営の各部門で、進捗状況はそれぞれ異なりますが、課題解決に向けた多様な検討、实践が進められてきました。一例をあげれば、法人化した国立大学運営の基盤となる予算?決算?財務状況について、これまで不透明であった全学的情報を皆さんと共有できるレベルに「可視化」することで、实効的運用の体制整備、实践が可能となりました。我々の抱える課題や問題点について、全学の皆さんは総論としてはほぼ理解されていると存じます。今求められるのは、既成概念にとらわれることなく、新しい将来展望を視野に持った、各論レベルでの課題解決への取り組みであります。議論?審議をくり返しているだけでは、大学の機能?運営に求められる変化や改善を实現することはできません。20xx年を『行動の年』と位置づけます。

行動では6つのWとひとつのHが必要と言われます。「なぜ、何を、いつ、何処で、誰のために、誰が、どのようにしてやるか」です。常に鍵になるのは、

『誰がやるか』です。それは大学構成員全員の役割であり、責務ではないでしょうか。教職員の皆様には、各々の役割は異なっても、富山大学の継続と発展のため、自身の責務は何か、役割を果たすため何を為すか、各々が考え行動して頂くことを熱望いたします。

考えて決まらなければ行動しないではなく、先ず行動し、行動しながら考え前進する姿勢も必要と考えています。

行動の目標としては、常に世界を意識していきましょう。教育では世界で活躍できる人材を育てるカリキュラムや支援体制の構築、研究では世界レベルで評価される結果やそれに向けたプロセス?努力の見える形、社会貢献でも世界をターゲットにする視野をもった取り組みを目指しましょう。一方で予算は限られ、過去の時代に行われた拡大方式ではない、新たな発想?方策での対忚も求められています。体制、組織の整備?運用では、必要なことを選択し基盤を固め、更なる力の展開?集約は個別に考える柔軟性も必要です。具体的には、全学?学部における教養?基礎専門教育カリキュラムの再構築、研究实施?支援体制の推進、事務組織の再編、富山県大学コンソーシアムの推進など、取り組むべき課題は山積しています。特に研究?社会貢献については、個々の研究者のパワーと連携が成果を生み出す根源であり、教職員の皆様の益々のご奮闘そしてご発展を願っています。部局を超えたプロジェクト研究や若手の研究について積極的に予算支援いたします。また私は、学生?人材の育成が大学の果すべき最大の使命であり、全学的に取り組まねばならぬ課題と考えています。その实現にむけ「共通教育センター?国際教育センター」を核とする教養共通教育の全学的整備?推進を今年度の最重要課題として、全力で取り組みます。 3大学統合10年を前にして、大学を取り巻く様々な状況を考える時、20xx年は富山大学の将来にとって極めて重要な年となります。皆様とともに、行動、前進し、発展の年といたしましょう。どうぞ宜しくお願いいたします。

2、会長あいさつ(式辞)

社会福祉法人 全国社会福祉協議会 会長 斎藤 十朗

本日ここに天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ「全国社会福祉協議会100周年記念 感謝の集い」を挙行できますことは本会のみならず全国の社会福祉関係者にとりましてこのうえない名誉であります。

明治41年10月7日、本会の前身である中央慈善協会の設立は慈善事業と呼ばれていた我が国の福祉関係者や団体を初めて一つにつなぎ、以来今日に至るまで本会は福祉現場の皆様方とともに活動を続けてまいりました。

この100年間福祉は慈善事業から社会事業そして社会福祉事業へと発展を遂げてまいりました。その間には厳しい環境のなかにあって人びとの幸せのためにたゆまぬ努力を続けられた関係者のご労苦があり、そうした方々の存在こそが我が国の福祉を発展させてきたものと考えます。あらためて多くの先達たちに深く感謝申しあげるとともに今、この時にも福祉の現場を支え続けておられる皆様方に衷心より敬意を表するものであります。

福祉とは「人びとの幸せ」をめざすものであり、なにより人びとに対する思い優しさ、そして高い使命感に裏打ちされるべきものです。私どもは多くの先達から受け継いだその志を守り、さらに発展させていかなければなりません。 今日、社会福祉は大きな転機にあり、世界にも例を見ない尐子高齢化の進行は社会の姿を大きく変え多くの課題を顕在化させています。そのなかにあっては社会福祉もさらなる見直しが求められようとしています。

国民誰もが安心して生活を送ることができる社会を築き、真に国民の立場にたった福祉の制度としていくためにも福祉の現場で人びとに接している方がたの声を結集し、関係者が一体となってその充实のための活動を進めていく必要があります。

本会では現在、これからの事業や組織のあり方についての検討を進めておりますが、この100周年の節目にあたり設立の原点にあらためて立ち返り我が国社会福祉の一層の発展のため皆様とともにさらなる努力を続けてまいりますことをここにお誓い申しあげ、私の挨拶といたします。

3、京都市地域結集型共同研究事業京都大学ナノメディシン融合教育ユニット

平成20年度活動成果報告会 挨拶 尾池 和夫(20xx年9月30日)

京都市地域結集型共同研究事業?京都大学ナノメディシン融合教育ユニット平成20年度活動成果報告会の開催にあたり、ご挨拶申し上げます。

本日、活動成果を報告する両事業は、ナノテクノロジーとライフサイエンス、並びに医学が融合して初めて实現できる「ナノメディシン」という新しい先端医工学領域において、一方は研究開発部門を担い、一方は人材育成部門を担うという、車の両輪に当たる関係にあるとお聞きしております。

本学に設置しているナノメディシン融合教育ユニットは、ナノメディシン分野に対する社会のニーズに忚え発展を支える人材を育成するために、京都大学の大学院生と社会人の両者を対象として、先端医工学に関する融合領域の基礎教育を行うことを目的としているものであり、平成17年度に文部科学省の科

学技術振興調整費の支援を受けて開設し、京都大学の部局を横断した組織として位置付け、既存の研究科?専攻という教育体系の枠組みを越えて、大学全体として運営しております。

平成19年度には、文部科学省の中間評価があり、「医工学融合分野の教育は、わが国の優れた工学、医学の基礎研究を医療に忚用する上できわめて重要であるが、これに対し強いリーダーシップの下、大学全体として取り組み、豊富な教授陣により当初の計画が着实に進められ、所期の目標を十分に達成している」と、総合評価でA評価をいただきました。

本学では、本教育ユニットの实績を基盤にして、工学研究科では、医学研究科の協力も得て、生命?医工融合分野の、分野横断型連携教育プログラムを融合工学コースのひとつとして新設し、本年4月から大学院教育を開始しました。 また、学内の研究体制として、平成19年度に、京都大学における医工学研究の全学組織として「先端医工学研究ユニット」を設置し、文部科学省の平成18年度科学技術振興調整費により設立された「高次生体イメージング先端テクノハブ」の活動を支えております。

今後更に、これらの教育ユニットと研究ユニットの組織を統合発展させ、医工融合分野の教育研究を担う新専攻の設立を計画しています。

このように、医工融合分野の教育研究を通じて社会に貢献することは京都大学のミッションの一つであり、本学の研究者が中心となって進められている京都市地域結集型共同研究事業とナノメディシン融合教育ユニットの双方が順調に発展し、所期の目標を達成して成功に導かれることを私も大いに期待しております。

この間、関係各位のご支援、ご協力、さらに共同研究機関、京都大学の研究者、職員のご努力によって、両プロジェクトは順調に発展し、すでに数々の成果を挙げており、ご支援、ご協力いただいている学内外の皆様に深く感謝申し上げます。

本日発表される一年間の研究活動の成果が、「生涯健康な社会」の实現に向け、ここ京都の地における高度先端医療の発展の基盤となることを祈りつつ、私のご挨拶といたします。

4、オーストラリア ケビン?ラッド首相の講演の前の挨拶

尾池 和夫(20xx年6月2日)

本日、オーストラリア連邦ケビン?ラッド首相及び同令夫人を京都大学にお迎えし、首相にはご講演いただくことを大変光栄に存じます。京都大学を代表して、一言、挨拶を申し上げます

ケビン首相には、大変ご多忙な日本滞在中の貴重な時間を、本日の講演にお割きいただいたことを心からお礼申し上げます。

本日、京都大学の学生、教職員をはじめ京都府?市民等の皆様方の多数のご参加、ありがとうございます。この会場に入れなかった方々には、別にモニター室で、ラッド首相の講演にご参加いただき、直接、ラッド首相にお目にかかれなくなったことを大変恐縮に存じます。

ケビン首相は、オーストラリア国立大学で中国語?中国史を専攻?卒業され、ゴス?クイーンズランド州内閣府事務局長、野党労働党の影の外務大臣等を経て、20xx年12月同党党首に就任され、20xx年12月3日、オーストラリア連邦の第26代首相に就任されて、その外交政策の重要政策の一つに、アジアとの関係を重視されております。ケビン首相は、日本語を含むアジア言語教育への投資等日本との関係強化をも表明されています。

また、首相就任の当日に、19xx年12月京都において議決された「京都議定書」(「気候変動に関する国際連合枠組条約の京都議定書」、Kyoto Protocol to the United Nations Framework Convention on Climate Change)(19xx年12月11日第3回気候変動枠組条約締結国会議で議決)に署名されました。 京都大学では、20xx年に基本理念を定め、その前文に「地球社会の調和ある共存に貢献する」と謳っております。その一環として、京都大学の研究者は、かねて京都議定書に関わる国内数値目標のためのデータ計算をしておりましたが、さらに、20xx年の気候変動に関する政府間パネルIPCC

〔Intergovernmental Panel on Climate Change〕レポート作成に当たっては、シミュレーションモデルの充实に深く関わっております。

ケビン首相がこの京都をご訪問地の一つにお選びいただいたことに改めて感謝し、今回のご講演を通じて市民に多くの感銘を与えられ、オーストラリア連邦と日本の今後の友好と理解が大きく進展することを期待します。私もこのたびのご講演を心から楽しみにしております。

ありがとうございました。

5、生前の功績をたたえ尊敬を込めて

A製作株式会社代表取締役社長、故?B殿の社葬を執り行うにあたり、社員を代表いたしまして、ここに謹んで弔辞を捧げます。

B社長は、一月三十日午後九時三分、脳梗塞のため六十五歳の生涯を閉じられました。社員一同、ここに深く哀悼の意を表するとともに、ご遺族の皆様に心よりお悔やみ申し上げます。

B社長は、入社以来開発部門を中心にご活躍なされ、役職を歴任された後、平成十六年に代表取締役社長に就任されました。開発部長時代には、時代のニーズをとらえたアイデアで製品を世に送り出し、礎を築かれました。

社長になられてからは、時代のグローバル化?IT化が進むなかで新製品の開発を陣頭指揮されるとともに、コスト削減等も实施、増収?増益を続け、現在の業界における我が社の地位を確固たるものとされたのでありました。 B社長は、自らにたいへん厳しく、責任感の強い方でありました。経営者の責任ということを常に頭に置いておられ、「社長がしっかりしなければ、社員はついてきてくれない」と、いつもおっしゃっていました。また、人と人のつながりを大事にされ、社員の相談にも耳を傾けアドバイスを下さったりと、社員一同から敬愛されたトップでいらっしゃいました。

そのような社長のご逝去、私どもは今後もご指導にあずかることを願っておりましただけに、まことに痛恨きわまりない心境でございます。

B社長とのお別れに際し、社員一同、社長のご遺志を受け継ぎ、力を合わせて社業の一層の発展のため、努力して参る決意でおります。

どうか、いつまでも、お見守りください。社員一同、心からご冥福をお祈り申し上げ、お別れの言葉といたします。

【故 尾崎士郎への弔辞】(僅供參考)

川端康成 昭和(39年2月21日)

先年、国際ペン大会を日本で開催した時、尾崎君、君は親友の水野成夫氏に、日本ペン?クラブを助けるように頼んでくれたという。水野氏の肝いりによって、私たちが財界の大きな支援を得られたのには、君の口添えのお蔭だった。

しかも君の口添えのことを私は君の死の日まで知らなくて、今、君の霊前に初めてお礼をいう。

この一事のように、君は言わず、私は知らずして交誼四十年の間に、私が君に恩を受けたことが幾たびあったろうかと思うと、君の温容は目に浮び、君の温情は心にしみ、ひとしおなつかしい。

君の生きていてくれるということ、そのことが私の慰めとなり、救いとなったこともしばしばであった。同じ時、同じ世、同じ仕事に生きていたという縁は、年を加うるにつれ、さびしさの深まるにつれて、ありがたいものであった。 これは君の死によっても、残された私たちに消えるものではないが、君は君のなかの私たちと共に去った。君は死の近づく病をおして、多くの思い出、思い出の人々を書き残した。その思い出は私たちのものでもあった。

君の人柄、君の生涯、君の仕事について君の霊前で今言うには、はにかみを覚える。君の心やさしいはにかみを思い出す。ただ君と縁ある人々の健やかに恙ないことを君の霊前で祈る。尾崎君、長いあいだありがとう。

君去って君のような人はいないのをどうすることも出来ない。

6、皇后美智子さまの演説

(IBBY)創立五十周年記念大会?開会式に於いて

国際児童図書評議会 (2002年9月29日)

1998年、IBBYのニューデリー大会における基調講演を求められました。 私は、第二次大戦の末期、小学生として疎開していた時期の読書の思い出を(ビデオを通して)お話しいたしました。

身近にほとんど本を持たなかったこの時期、私が手にすることの出来た本はわずか四、五冊にすぎませんでしたが、その中の一冊である日本の神話や伝説の本は、非常にぼんやりとではありましたが、私に自分が民族の歴史の先端で過去と共に生きている感覚を与え、私に自分の帰属するところを自覚させました。

私がこのたびバーゼルに参りましたのは、私自身がかって子どもとして、本から多くの恩恵を受けた者であったからです。

貧困をはじめとする経済的、社会的な要因により、本ばかりか文字からすら

遠ざけられている子どもたちや、紛争の地で日々を不安の中に過ごす子どもたちが、あまりにも多いことに胸を塞がれます。

子どもを育てていた頃に読んだ、忘れられない詩があります。未来に羽ばたこうとしている子どもの上に、ただ不安で心弱い母の影をおとしてはならない、その子どもの未来は、あらゆる可能性を含んでいるのだから、と遠くから語りかけてくれた詩人の言葉は、次のように始まっていました。

生まれて何も知らぬ 吾が子の頬に

母よ 絶望の涙を落とすな

その頬は赤く小さく

今はただ一つの巴旦杏(はたんきょう)にすぎなくとも

いつ 人類のための戦いに

燃えて輝かないということがあろう???

このバーゼル大会が、たのしく实りあるものとなりますように。

7、吉川英治の発言

菊池寛賞受賞記念祝賀会にて

じつは、この一週間ほどまえ、三月十五日、私の幼年時代の小学校の先生??山内茂三郎先生??にお会いできました。五十年もまえに教わった先生でございます。横浜の教育界にあること六十七年、ことし八十八歳になられます。 残り尐ない同窓生で、先生の米寿をお祝いいたしたいとのことで、私も駆けつけまして、横浜の山の手の一校舎で、老先生を中心に、楽しいお祝い日を過ごしたわけでございました。考えてみると、私は、過去に、あの学校生活というものの味は、小学校の校庭しか知らないのでございます。ですから、私には、恩師となつかしめるかたは、この老先生おひとりなのでございます。

その晩、私は同窓生の人たち五、六名と、老先生ご夫婦をお連れして、よそへ食事に参りました。そして、米寿の赤いワイシャツを着た老先生とご夫人を床の間に、きれいな芸妓さんをあげて、子どもみたいな大騒ぎをやりました。 先生は、この年で芸者さんと遊んだのははじめてだとおっしゃるんで、私たちは先生の晩節を破ったわけです。(笑い)それも愉快になって、むかし歌った「汽笛一声新橋を???」だの「箱根の山は天下の嶮???」なんていう唱

歌を大声で合唱しだしますと、先生もお顔のしわに涙をためて、手拍子をとりながら、「箱根の山は天下の嶮」を歌われました。そしてぜひ、自分もきょうの記念会に来たいと言われ、わざわざ、きょうここに、横浜からおいでくださったのであります。(大拍手)

まことになにやら感慨にたえなくなりました。先生が八十八歳、生徒の私が六十二歳です。七つ八つのころから、文字どおりイロハのイの字、ABCと教えていただいた先生を、五十年後のきょう、このような席に、お迎えすることのできたというのは、ながい人生としても、ことに私ごときに、望外なことでありまして、なんといってよいか、ことばにつくせない???(吉川氏嗚咽---満座粛然、ウエイター君までもらい泣き)???このうれしい機会を恵んでくださいました故菊池寛氏というありがたい友人、また日ごろ、仕事のため、不義理ばかり重ねておりますのに、寛大なご参会をいただきました満堂のみなさまに、厚くお礼とおわびを申しあげます。(大拍手)ほんとうにありがとうございました。(大拍手)

【この記事は『話し方といい会話講座』より転載しています】

8、女優 高橋惠子

第1回知床リレーフォーラム基調講演

知床の玄関口?斜里町に10歳から12歳まで住んでいました。夜中に流れ着く流氷の音を、わくわくするような、ちょっと怖い気持ちで聞いた思い出があります。

一時間くらいかけて学校から帰ると、母親が用意した洗面器の水に手を入れます。いきなりストーブで温めてはいけません。かじかんだ手をいったん”解凍”するんです。

知床にも4回くらい行きました。知床五胡、オシンコシンの滝????。木がそよぎ、小鳥がさえずる音が、聞こえるはずなのに聞こえない。そんな静けさに、人を寄せ付けないような神秘的な気配を感じました。

手つかずの自然の厳しさ、美しさ。15歳で上京して女優の仕事を始めてからも、生まれ育った北海道の自然は、自分を見失いそうになった時に支えてくれる私の原点でした。(省略)

手つかずの自然は、先住民族のアイヌの人たちのおかげでもあるんです。 自然に神が宿っていると考え、必要以上に生き物を獲るることをしません。自然との共存は、永遠のテーマだと思いますが、アイヌの生き方に私たちが学ぶ

ことも多いのではないでしょうか。(省略)

知床の「温かさ」を一番感じるのは冬かも知れません。

皆さんにも、ぜひ冬の知床を目と耳と肌で体験していただきたい。知床の地には、地位や名誉を取り払い、一人の人間として包み込んでくれるような魅力があります。垣根をなくして人と人をつなぐ、そんな力があるのです。

世界自然遺産になるという話は、夢のようで、かって近くで過ごした者としてうれしく、誇りに思っています。海外からも大勢の人が訪れてくれるでしょう。仕事で海外に行くと、日本の四季の素晴らしさを改めて感じます。

これをきっかけに、繊細で、それでいて力強い日本の自然を、もっと海外の方々にも知ってほしいと思うのです。

北海道の地の果てに、手つかずの「宝」があります。それは私たちみんなの宝。

私にも1歳になる孫がいますが、知床でしか見られない動物や植物を次の世代にも見せてあげたい。この豊かな自然を守るには、地元の人だけではなく、同じ日本に生まれた皆さんの協力も大切です。

読売新聞 記載

9、海外で新生活をはじめる二人に

結婚式に於いて 大来佐武郎 (元外務大臣)

あなたがたお二人は、この結婚式が終ると、すぐ日本を離れて外国で生活をなさることになっている????。不慣れな土地での生活は何かと不安でしょうが、国際人として有意義な生活を送っていただきたいと願っております。世間から国際人といわれている先輩としてアドバイスをさせていただきますと、それには、まず「平常心」を養うことが大切ではないかと思います。 これからの世界では外国人だ、日本人だという意識をしない人間関係??国境や人種の違いにこだわらないで、つきあいができるように「平常心」をもって人に接する必要があります。今までの日本人によくありがちな、先進国だからといって見上げて、いわゆる後進国を見下すというような気持があってはいけません。

日本に来る外国人とのつきあいの上でも、ただ同じ人間同士としてつきあうことが必要です。単に外国だからという理由だけで、むやみに肩ヒジを張ってみたり、見上げたりする必要は尐しもないのです。

どういう人とつきあっても同じ態度でつきあえる心。上の人でも下の人で

も、若い人でも年寄りの人でも、外国人でも日本人でも、いつもと同じにつきあえる心??これを平常心というのなら、その心が必要だと思うのです。このことは、結婚生活についても同じようなことがいえるのではないでしょうか。 知り合いの国際的なビジネスをやっている会社の社長に聞いた話だと、社員を外国に留学させると、およそ二つのタイプに分かれるそうです。

一つは外国に行って米の飯と味噌汁がないと元気が出ない。一種のノスタルジアになるというタイプと、もう一つは外国社会に融けこんでしまって、あまり日本のことも考えず、同化してしまうタイプだそうです。本当は、その中間が欲しい。日本人であることを忘れずに、しかも国際的なセンスを身につける。外国人とも平らな気持でつきあえる。

口でいうと易しそうだが、これでなかなか難しいようです。その社長さんも、留学もある程度必要だが、日本の会社になるべく外国人を働かせ、日本人の上にも下にも外国人がいるというようなやり方で、国際的な人材を作る努力をしていると話しております。

日本はどうしても島国ということで、長い間、直接、外国との接触がなかった。外国人と接するのは外交官とか、ビジネスで外国の仕事をやっている人とか、ごく限られた一部の人たちでした。一般の方々はまだ尐ないようです。しかし、考えてみると、昨年一年間で四百万人近い日本人が外国に出ています。二十年前には二万人だったことを考えますと、これからますます他国と接触する機会がふえて行くでしょう。

資源のない国日本は、食べ物も燃料も外国から入れ、日本人の活動とか生活は維持されているわけです。そういう原料や食糧には外国のレッテルは貼られていませんが、われわれの日常生活自体が、海外と非常に密接につながっているわけです。

なんだか話が、私のいままでやってきた関係の話題ばかりで、いささか説教めいてしまいましたが、若いあなたがたは、これからどこにあっても平常心の心構えで、国際人にふさわしい幸せな家庭を築いていただきたいと思います。 「ここ一番役立つ有名人?名スピーチ集」 より

10、静寂の地 孤独と安堵と

第3回知床リレーフォーラムに於いて 宗次郎

世界遺産登録おめでとうございます。

12年ほど前、釧路湿原のラムサール条約登録記念イベントが釧路で開かれました。そのとき、一緒だった作家の立松和平さんに誘われ、斜里町の公民館

で演奏しました。帰宅した翌週、水をテーマとしたアルバムのジャケット写真を、きれいな川のある知床で撮影しようと再び訪れたのです。こんなことがきっかけで、知床に何回も通うようになり、地元の人の協力で、森の中に自分たちの山小屋も作りました。

6月に久しぶりに知床五湖を訪れ、団体実が多い印象を受けました。尐人数だと怖さもありますが、静かな感動が味わえます。以前、尐人数で森を歩いていて、突然フクロウが鳴きました。森の主だといわんばかりの荘厳な響きに、一声でその場の空気が変わったのです。

自分だけのお気に入りの場所を見つけるのもいいですね。知床はそれが可能???。

僕が好きな散策コースは、知床自然センター近くにあります。海からの風が吹く場所ですが、風が止まった一瞬は静寂の世界。厳しい自然の中に、ひとりぽつんといる孤独感と同時に、自然に身をゆだねている安堵(あんど)感があります。

夏、あれは天の川だ、などと話しながら夜空を眺めたこともありました。空気がいいから夜空もきれい。秋には、知床峠に向かう道路から、ナナカマドの赤色と白樺(しらかば)などの黄色のコントラストに感動しました。知床は、上から下まで本当にいい場所です。冬も美しいですね。網走からウトロに向かうと、オホーツク海、真っ白な知床連山の景色が豪快で、地球に暮らしていると感じます。

昨年、世界遺産に登録されるかもしれないので知床の曲を作ってほしいと言われ、たまたま自宅で浮かんだメロディーが、知床連山の豪快な景色に合っているなと思って作曲しました。そのレコーディング中、大自然はもちろん、お世話になった知床の人の笑顔がたくさん出てきました。

アイヌ語でありがとうを意味する言葉に「イアイライケレ」があります。この言葉は、人に対してだけでなく、自然に対して発した言葉じゃないかと思ういい響き。森の神様への祈りの言葉のような気がしてきます。

知床の今後を考えるとき、自然に感謝しながら暮らしてきたアイヌの皆さんの考え方が、手本になるのではないでしょうか。それは、知床に限らず、日本全国について言えることだと思います。

「知床特派員 リレーフォーラム」 より

11、人生は着陸にあり

入社式に於いて 本田宗一郎(ホンダ最高顧問)

私はどんな場合にも自分の体験を通して肌で感じたことしか話せないので、本日もその点は、ひとつわかってもらいたいと思います。

さて、私の子供時分は、家に新聞をとって読んでいる人も尐なく、ニュースはおもに口伝えで聞かされましたから、そこにはかなりの時間のズレがありましたし、もちろん、自分の目や耳で確かめ得たものではありませんでした。 しかし、いまはスピードがすべての世の中です。電話や新聞、テレビなどの通信網の発達で、世界各国の情報が居ながらにして入手することも、現場の情況をそのまま見ることもできます。アメリカへ行こうと思えば、十時間でいけます。また、必要な情報は、コンピューターにちゃんと入っていて、プログラムさえしっかりしていると、答えが出てくる。

ところがです。時代はこれだけ変わっても、変わらないのが学校教育なんですね。いまだに教わったことをどれだけ暗記しているかで、そのひとの人間的な価値を判断するのです。こういう時代にはたして何でも憶えている必要があるんでしょうか????昔は、電気というと、「灯く」「鳴る」「回る」、それぐらい憶えていればどうにかなりました。しかし、今は、電子工学だけで何千種類もあって、そのなかの一つを憶えるのだって大変だし、仮にそれを全部知っているということは、逆に何も知らないということにもなるんです。学校の先生だって専門に分れて教育を受けているのに、子供たちに全部憶えろというのはおかしいね。

むしろ、今の時代に求められているのは、知らないことは他のひとに教えてもらえる謙虚な人柄です。いうなれば、道徳的な人間を作ることが一番大事だと思います。他人から教わるには、何よりまず他人から愛される人間にならなければなりません。そのためには、相手との約束を守るということも愛されるうえで大切なことです。そういう意味で、今の学校は、人間が生きていくうえで必要なことを、ちっとも教えてくれないようだ。私の場合、私にそれを教えてくれたのは父親でした。

それに学校で教わることは過去のことです。われわれが本当に知りたいのは未来なんです。そのために、便宜的に、過去を教わっているにすぎません。そして、教わったことは实践するときの道具にしかならない。大事なのはその实行力です。知恵のあるひととは、単に記憶力のいいひとではなく、その知恵を時代に適合した形で忚用する術を編み出す力のあるひとのことです。

私には、今の学校教育は若い人を点数の犠牲にしているように思えてなりません。やり方によっては、そのひとの持っている人間らしさや個性を殺して、ま

るでひとの鋳型にはめて人間のタイ焼きを作り出しているようで憤りすらおぼえます。

たとえば、コンピュータをやりたいひとにとっては、数学の成績が百点に近いものでなければならないでしょう。しかし、美術の方をやりたいというひとには、何故に、高等数学が必要なのでしょうか????不得意な数学まで百点をとらなければ専門の学校に入れないとしたら、真の芸術家を失う結果になってしまう。

私は、およそ子供の勉強に不熱心な親に育てられました。いってみれば、放ったらかしで育ったようなものですが、学校の勉強にはうるさくいわなかった親も、こと人間教育に関しては大変に厳しかったものです。

これから社会に出る若い人にいいたいのは、会社のためではなく、自分のために働く人間になってもらいたいということです。会社が大事で入社したのではなく、自分の得意を活用するために入社したはずです。顔かたちがそれぞれ違うように、自分の個性を生かした生き方をしてもらいたい。

社会では、未経験からくる失敗も多いことでしょう。かくいう私もその例外ではなく、失敗の連続でした。が、失敗のないところに成功はありません。若いときの失敗は、やり直しがきき、そのたびに自分の血と肉になっていくものです。自分の考えを自分の手で实現できるのも、若さの特権です。ことに、人生というマラソンは長い。わずか数年の学校生活の結果で決まるはずがない。どうしたって、八十年というロングスパンでものごとを考えるべきでしょう。 私は、世の中は、離陸に始まって着陸に終わる、たとえるならば、飛行機の人生だと思います。テイクオフといえば、華々しくて大勢のひとが見送りにも来てくれましょうが、上げ舵をとれば割合に楽なのです。

ところが、どんな立派なパイロットでも、着陸が悪かったらおしまいです。だから、私は、着陸だけは立派にして、「名パイロットだった」といわれるようにしてみたいと思っています。飛行中は、気流が尐々悪く、ハッとしても、私はいいと思うんです。それが、生きている人間の常なのですから???。 私が、これまでこうしてやってこれたのも、つまるところ世の中の人達が支えて下さったからです。したがって、私にとっての見事な着陸とは、私が今まで積み立ててきた技術とか経験とかいうようなものを、そっくり皆さんにおかえしすることだと思っている次第です。若い人は、これからがテイクオフです。自分の目標をもち、しっかりと操縦桿を握りしめ、上げ舵をとって下さい。

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