复旦大学本科毕业论文(设计)开题报告 外文日语

时间:2024.4.30

复旦大学本科生毕业论文(设计)开题报告

复旦大学本科毕业论文设计开题报告外文日语

复旦大学本科毕业论文设计开题报告外文日语

指导教师签名: 年 月 日

复旦大学本科生毕业论文(设计)检查情况记录

复旦大学本科毕业论文设计开题报告外文日语


第二篇:日语 论文样例


外国学院2007语专业毕业论文定稿格式要求及模版

1. 日文封面

1)学校名称 — (MS Mincho 36号字,居中)

2)论文标题(副标题) —(MS Mincho24号字,加粗,居中)

3)作者信息(Applicant) — (MS Mincho 15号字,填写内容加粗)

4)院系名称(Faculty) —(MS Mincho 15号字,填写内容加粗)

5)论文提交日期  —(MS Mincho 15号字,居中)

6)指导老师姓名(Supervisor)—MS Mincho 15号字,填写内容加粗,)

2. 谢页(Acknowledgements)

·致谢页应包括对给予各类资助、指导和协助完成论文写作工作以及提供各种条件的单位和个人表示感谢,单独成页。

3. 中日文摘要和关键词页

 1)要旨  — (MS Mincho 15号字,填写内容加粗)

 2)内容  — (MS Mincho12号字)

4. 目次(Contents)(MS Mincho 16号字,填写内容加粗)

1) 题号 — (MS Mincho 12号字)

2)内容 — (MS Gothic 12号字,正文页码有变动时目录也要作相应调整。)

·中日文摘要应在150-300之内要能概述全文,提出主要论点、揭示论文的研究成果、简要叙述全文的框架结构,具有独立性和内含性,即不阅读论文的全文,就能获得必要的信息。关键词3~5个,13号字,中文和日文分页,中文在前,日文在后。

1) 标题 — (MS Gothic 16号字,加粗,居中)

2)内容 — (MS Gothic 12号字,“Key words/关键词”要加粗)

5. 正文 (6,000~10,000 字)(MS Mincho 16号字)

正文的一般由以下部分构成:

1) 引言部分(はじめ),(填写内容加粗,综述前人的研究成果、存在的问题、本课题研究的意义、理论依据以及拟采取的方法和步骤。(约5,00~1,000字)

2) 主体部分,分析问题,提供有关论据。

3) 结语部分,结论应是本论部分阐述的必然结果,其作用在于简明扼要地重申论文的论点,归纳、总结全文,并比较前人的研究情况与自己的研究结果,提出值得进一步研究的方向和倾向性意见。(约300~500

6. 参考文献(Bibliography)(MS Mincho 16号字)

参考文献为作者阅读过、在正文中被引用的文献资料。

中日文参考文献分别列出,日文在前,中文在后。按照引用文章(或书)名、作者姓名、期刊名或出版社名、发表或发表年度(含第几期)、具体页码等顺序排列。注:不必标识参考文献类型,专著不必标注引用页码。

7. 注意事

1)毕业论文一律用A4纸打印,页边距用缺省值(上下为2.54cm,左右为3.17cm)。封面、致谢、摘要、目录、参考文献都单独成页,如超过一页,可继续。

2)除封面,致谢、摘要、目录、正文等的标题用14号字,二级标题,其余部分均用12号字。日文文字均用(MS Mincho,中文用宋体。行距为1.5倍行距,段落格式为首行缩进1个日文字符。

3)封面、致谢、摘要和目录部分不标注页码,正文和参考文献用一、二、三……,全部页码居中。

吉首大学

  本 科 業 論 文( 設 計 )

題目:井伏鱒二の作品における小動物について

——「山椒魚」を中心に

目:井伏二作品中的小物世界

                      ——以《山椒中心

学号:

姓名:

:   

学院:外国学院

:日

专业:日语语言文学

完成期:  年  月

:  

诚信声明

本人声明,所呈交的学位论文是本人在导师指导下进行的研究工作及取得的研究成果。尽我所知,除了论文中特别加以标注和致谢的地方外,论文中不包含其他人已经发表或撰写过的研究成果,也不包含为获得吉首大学或其他单位的学位或证书而使用过的材料。

作者签名:         日期:               

于学位文使用授权说

本人了解吉首大学外国语学院有关保留、使用学位论文的规定, 即:学院有权保留学位论文,允许学位论文被查阅和借阅;学院可以公布学位论文的全部或部分内容,可以采用复印、缩印或其他手段保存学位论文;学院可根据国家或湖南省有关部门规定送交学位论文。

作者签名:       导师签名:        日期:              


要 旨

井伏鱒二は新興芸術派の中で極めて特異な作風を持っていた作家である。彼の文学作品は題材範囲が広く、頗る研究価値を有する。本論文は井伏の初期作品における小動物世界について研究し、井伏の内面を解読し、その創作特色を分析してみた。

本論文は、井伏の初期作品に登場する山椒魚、蛙、小蝦、目高などについて一つずつ分析を行い、特に山椒魚の心理特性を中心として、彼の内心における矛盾性を掘り出したのである。そして、井伏の内面の矛盾、すなわち、当時の文壇の波を追うことと自己の創作風格を保つこととの矛盾を分析する。また、他の小動物の寓意や彼らが山椒魚との関係を分析し、作者が様々な小動物を通じて人間社会の世態人情を反映するという結論を得た。蛙にしても、小蝦にしても、人間社会でその原型を見つけることができる。作者はこういう比喩の方法を通じて、自己の内面の不安や矛盾を表すだけではなく、社会の様々な人間像に対して風刺しているのである。

そのほか、私は井伏のもう二篇の小動物を描く小説、「鯉」と「屋根の上のサワン」について比べながら分析し、井伏の作品における小動物世界の共通点を得た。すなわち幽閉、孤独、悲しみ、友情、夢などである。その上、これらの共通点のかなめは不自由の問題であることを指摘した。最後に、井伏鱒二の創作特色やそれを形成する原因について簡単に分析した。

キーワード:山椒魚 蛙 小蝦 目高 サワン 幽閉 絶望 孤独 寓意

内 容 提 要

井伏鳟二是日本新兴艺术派中极具特色的一位作家。他的作品涉及范围很广,颇具研究价值。本论就是要通过对井伏鳟二的处女作以及其初期的作品中呈现的小动物世界进行研究,以此来解读井伏鳟二的内心世界,分析其创作特色。

在本文的论述中,我将文中的山椒鱼、青蛙、小虾、鳉鱼等小动物抽出来,逐一进行分析。重点对山椒鱼的心理及其寓意进行分析,发掘了山椒鱼内心的矛盾性,进而分析了井伏鳟二内心的矛盾心理。即跟随大众潮流还是追求自己的创作风格的矛盾。另外还通过分析其他小动物的角色的寓意以及它们和山椒鱼的关系,进一步得出了作者通过诸多小动物反映人间百态的结论。青蛙也好,小虾也好,都可以在人类社会中找到其原型,作者通过这种比喻的方法,既反映自己内心的矛盾与不安,又对社会上的种种人物进行了讽刺。

另外,还就井伏鳟二的另外两篇有关小动物的文章进行了比较分析,得出了井伏鳟二文章中小动物世界的共同之处。即幽闭、孤独、悲伤、友情、梦想等。这些共同点中的关键是不自由的问题。最后,还简单分析了井伏鳟二的创作特色及其形成的原因。

关键词:山椒魚 青蛙 小  鳉鱼 沙凡 幽 望 孤独 寓意


目  次

はじめに……………………………………………………………………1

一 井伏鱒二について……………………………………………………3

二 「山椒魚」の創作背景とあらすじ…………………………………5

1  創作背景…………………………………………………………………5

2 あらすじ………………………………………………………………5

三 小説の中に出てきた動物についての分析と比較…………………7

1 山椒魚 その境遇、心理、性格及び寓意について………………7

2 山椒魚と他の動物との関係及びその寓意………………… ……10

A 山椒魚と蛙……………………………………………………………10

B 山椒魚と小蝦…………………………………………………………11

C 目高について…………………………………… …………………12

四 小動物の世界から見た井伏鱒二の思想と創作特色……………14

おわりに…………………………………………………………………18

参考文献…………………………………………………………………19


はじめに

井伏鱒二は新興芸術派の中で極めて特異な作風を持つ作家である。彼の文学作品は題材範囲が広く、頗る研究価値を有する。本論文は井伏の初期作品における小動物世界について研究し、井伏の内面を解読し、その創作特色を分析してみたい。井伏とその作品についての研究は非常に多く、中村光夫、寺田透、吉田精一、東郷克美、関良一など多くの評論者は、大変豊かな成果を収めた。彼らは井伏の生涯、作品、現代文壇における地位、創作特色とその影響、思想構造などの方面を分析した。そのうち、出生作の「山椒魚」に対する評論も乏しくない。「作者が山椒魚と化して自分の内心を表す」とか、「山椒魚は極めて絶望と倦怠の象徴である」とか、「『山椒魚』は井伏の文学創作に巨大な影響を与えた」とかいう考え方である。

しかし、大部分の人は山椒魚に対する研究を二言三言のレベルに止まり、より多くの精力を彼の名作「さざなみ軍記」、「遥拝隊長」、「黒い雨」などに用いられた。勿論、一部分の人が「山椒魚」に対する専門的な研究を行った。彼らは関良一をはじめに、山椒魚の心理特性や性格を全面的に分析し、井伏の当時の情況と結びつけて以下の結論を得た。山椒魚は作者自身の象徴であり、作者が山椒魚を通じて自分の内心世界と当時の文壇に対する批評の見方を表す。(私もこの結論を基づいて自分の研究を行い始めたのだが)然し、山椒魚を井伏の作品における小動物の世界に置いて、小動物達との関係を分析する人は少ない。実は、井伏の作品の中に出てきた小動物もゆるがせにしてはいけない役割があり、大きな研究価値を持っている。

山椒魚は永遠な棲家である岩屋から出て行かれなくなる。岩屋は狭く、出入口は小さく、彼の頭は発育し過ぎた。強いて出て行こうとすると、彼の頭は出入口を塞ぐコロップの栓となる。山椒魚は狼狽し、悲しむ。

この滑稽且つ可憐な小動物のイメージは現代文壇の傑作と認められ、現代文学史で重要な一ページを占めている。井伏の出世作としての「山椒魚」は、多くの優れた作家の処女作に共通する一つの性格を持っている。それは、この作品が、それ自身としての価値より、彼の厖大な著作に冠せられた序文として貴重なのである。「山椒魚」は彼の文学的才能の、無意識であるがゆえに正確な見積書と言ってもよい。その後、彼が書いた歴史物にしても、漂流記物にしても、全体的に処女作「山椒魚」にあらわれた面影は変っていないと世が認める。それ故、井伏の初期作品についての研究は非常に有意義なことである。本論文は、「山椒魚」を中心に、井伏の初期作品で描かれた小動物の世界を解読し、作者がその非人間社会を通じて、世に見せた彼の人生に対する態度について詳しく分析してみたいと思う。


一 井伏鱒二について

 井伏鱒二(本名満寿二)は、明治三十一年に広島県深安郡加茂村に中流地主階級の農家の次男として生まれた。小学校四、五年のころ、有本芳木や島崎藤村の詩集に接し、またガルゲーというイギリス婦人からアイルランド劇を学んでシングに親しむ一方、画家を志して、写生に熱中し、中学を出ると、奈良、吉野、京都、大津を写生旅行したという。また、中学のころ、当時、連載されていた森鴎外の『伊澤蘭軒』[1]のことで、その史実が間違っているという反駁文[2]を書いて、鴎外から返事をもらった。鴎外は「筆跡は老人なるが如く、文章には真率なる処がある」と『伊澤蘭軒』の?その三百三?一章を費やしてこのことを記している。それを見ると、中学生の井伏はすでに老成した筆づかいを持していたらしい。大正六年(1917)、画家になることを断念して、長兄の勧めで志望をかえ、九月早大予科一年に編入した。翌年文学部に進み、同級の青木南八と知り、とかくなまけがちな井伏は、この友から学業の面でも創作の面でも刺激されることになる。大正十一年(1922)の五月、青木南八は亡くなり、そのショックのためか、井伏は早大を退学してしまう。しかしこの友の死は、井伏に「鯉」を書かせる動機となり、「山椒魚」とともに、井伏鱒二を文壇に登場させた。この二編、そしてやや遅れて発表された「屋根の上のサワン」は井伏文学の基盤をなして今につづくものである。彼の早期作品を見ると、初期の井伏文学には、共通の詩情や諧謔が溶けあって、いずれも独特のペーソスを湛えている。また井伏は、都会生活を逃げ出して、しばしば帰郷しており、戦争末期には二年間も疎開しているためか、その作品に郷土色豊かな佳品が多い。「朽助のいる谷間」「丹下氏邸」「当村大字霞ヶ森」などである。それからは旺盛な作家活動を開始した。その長編『ジョン万次郎漂流記』で直木賞を、また「本日休診」で第一回読売文学賞を受けている。さらに『黒い雨』で広島県における原爆の悲劇を庶民の日常生活の場で淡々と描いて野間文芸賞を受けた。[3]


二 「山椒魚」の創作背景とあらすじ

1 創作背景

井伏鱒二の処女作とされている「山椒魚」は今残っている井伏の習作のうちでは最初の作品である。彼は二十一歳、予科二年の時に「やんま」「蟻地獄」など動物に関する短い小説を書いて親友の青木南八に郵送した。井伏はかつて「学生のころは青木に読んでもらおうと思って作品を書いた」と洩らしたことがある。南八の存在が井伏にとって大きな刺激であったことが判る。青木南八と知り合った年の夏休み、井伏が帰郷して、かつて父郁太の病舎であった大石崖の上の家で作品を書いた。彼の初期の名作といわれる「鯉」も青木南八への感慨を一匹の白い鯉に託して表現した作品である。実は「山椒魚」は井伏がチェホフの「賭」[4]を読んで感激して書いた文章で、「賭」の主人公の法学者である人間の絶望から悟りへの過程を書こうと思ったので、「もっとも悟って行くところは書こうとすると、自分に裏づけがないからどうしても説明になるのでやめた」[5]という状況で書いた作品である。当時の井伏は兄文夫や友達の勧めに従って上京し、画家志望から文学へ転換し、早稲田の文科に入学したばかりだったのである。

2 あらすじ

「山椒魚」は大正十一年八月の『世紀』に「幽閉」の題で発表された。のち『文芸都市』に改題加筆して掲載された。昭和五年四月の新潮社刊の『夜更けと梅の花』に収録。物語といっても簡単な物語である。ちょっと「うっかり」している間に体が成長しすぎたため、頭でっかちになって、狭い岩屋から出られなくなる山椒魚に関する滑稽な話である。彼はすでに絶縁されている。岩屋の出入り口に顔をくっつけて外の光景を眺めることを好んだ山椒魚は、激しく自他の愚かさを罵り、嘲り、無謀にも何度か「全身の力を込めて岩屋の出口の突進し」[6]、泣き、笑い、神様を怨み、その狭い棲家のなかでできることはすべてやった。しかし、結果は相変わらず一つしかない。狼狽で、倦怠且つ絶望の彼は目を閉じた。「際限もなく拡がった深淵」のなかに落ち込んだ。ある日、山椒魚の悲しい世界に一匹の蛙が「誤ってまぎれこんだ」。山椒魚はこのかわいそうな蛙を岩屋に閉じ込めてしまう。そして、二人は激しい口論をし始めた。また二年間が経った。山椒魚と蛙との間は、いつの間にか和解して、?友情?も生じてきた。二人は、岩屋の中に、互いに黙り込んで、深い嘆息をし続けた。


三 小説の中に出てきた動物についての分析と比較

1 山椒魚――その境遇、心理、性格及び寓意について

頭でっかちになって、棲家である岩屋から出られなくなった山椒魚は岩屋の狭い出入り口から外界を眺めることを好んだのである。彼は谷川と水の中の生物を眺めるだけではなく、自由の可能性をも眺める。どうしても岩屋の外に出ようと決心して、全身の力を込めて岩屋の出口の突進した結果も、頭は出口の穴につかえて、そこに厳しくコロップの栓をつめるという結果に終わってしまった。「それ故、コロップを抜くためには、彼は再び全身の力を込めて、うしろに体を退かなければならなかったのである。」 この境遇にいる山椒魚は、外へ出ようという決心は、どんどん弱くなっていくはずだろう。彼のひとり言を見てみよう。

最初に「何たる失策であることか!」と彼は二年前に彼の間違いを深く悔やんだのである。悔やんだ後は外へ出ようと試みた。一度失敗した後は「いよいよ出られないというならば、俺にも相当な考えがあるんだ」と呟いた。決心は相変わらず口調は既に柔らかくなった。何度も努力したが、さらに小蝦の前に失敗して、嘲笑された後は「ああ神様!あなたはなさけないことをなさいます。たった二年間ほど私がうっかりしていたのに、その罰として、一生涯この穴蔵に私を閉じ込めてしまうとは横暴であります。私は今にも気が狂いそうです」と涙ぐんで神様を怨みはじめた。「ああ神様、何して私だけがこんなにやくざな身の上でなければならないのです?」という怨みは、これは自分の運命だろうかという疑いを引き起こした。

以上の山椒魚の心理活動から見ると、彼は次第に絶望の縁に近付いていっていると言える。「外界に行こう、自由を求めよう」という希望も月日の経過とともに、あるいは幾度もの失敗の故、だんだん消えていってしまっているとも言える。希望が消えていくのと同時に、限りない孤独感と絶望が心を占領するようになった。

しかし、山椒魚の絶望は純粋な絶望だろうか、彼の思想の中に絶望と矛盾するものがないか、私は疑問を持っている。実は、山椒魚の心の奥底には表面から見つけられないその岩屋あるいは彼の棲家から離れたくないという矛盾した考えが潜んでいるのではないだろうか。理由は以下である。まず、山椒魚は「杉苔の花粉はしきりに岩屋の中の水面に散ったので、彼は自分の棲家の水が汚れてしまうと信じたから」、「杉苔や銭苔を眺めることを好まなかった、寧ろそれ等を疎んじさえした」。つまり、彼は既にその岩屋を自分の棲家としていたのである。この微妙な心理は彼の矛盾の基盤とも言える。そして、岩屋の出入り口から時々外を眺める山椒魚は、もし自由のみを非常に強く望んでいたのなら、目高とか、小蝦とかなどの小動物をつれなく嘲笑することはしないだろう。勿論、他の動物に対する嘲笑にしても、悪罵にしても、彼の内心の空虚や不満の証拠とも言えるが、長い間穏やかな生活の影響で形成した安逸感が心の奥底に根付いたからではないだろうか。そして、山椒魚と「誤ってまぎれこんだ」一匹の蛙との喧嘩も、彼の心理の矛盾点の証拠である。山椒魚にとって、いつも水の中に自由に水底から水面に突進したり、列を作って泳いだりした蛙の狼狽した様子を見ることは、何よりも痛快なものである。その痛快という感覚の中には、自己に対する慰めも、平等ではない世の中への報復も含まれる。そして、蛙の登場は山椒魚の平板かつ孤独な生活に一石を投じた。彼は最も重要な相手役として、山椒魚の生活を一変に変えた。少なくとも、無言の世界が打ち破られた。表面から見れば蛙の到来に対する抵触の態度を持っている山椒魚が、内心ではこれを歓迎していることは言うまでもないことである。しかし、蛙を歓迎する気があっても、少しも排斥する気がないとは言い切れない。蛙との激しい口論は自分の不満を表すとともに、外界からの彼がずっと望んでいた自由の象徴である蛙に対する排斥もはっきりと見える。

河上徹太郎の解説によると、「山椒魚の持つ詩情と寓意は、一読明らかである。…それはボードレールがよく使った、詩人の人間的失格の喩えだが、然しもっと辛辣で、もっとユーモラスである。何ゆえならこれは絶対に見物人のいない喜劇であり、絶対に救い手のない悲劇だからである。つまり正真正銘の孤独である。彼は目高が群れをなして皆が行く方へ自分も行くのを嘲笑ったり、うっかり岩屋へ舞い込んだ蛙を自分の頭で入り口を塞いで閉じ込めて困らせたり、…のを観照したりする。しかしそれらは山椒魚自身の生活とは関係ないことなのである。彼はこういう自分と関係ないもので自分を表現せねばならない。この倦怠は美しいけれど、絶望的である。彼はいつとしかこういう外物と化する。そしてかくの如く、井伏が山椒魚と化するのである。そういう自嘲と詠嘆をつきつめたのがこの作品である」[7]という。

そのとおりである。山椒魚のその矛盾性は、当時の作者の内面的矛盾をも明瞭に示しているのではないだろうか。まず、小田切秀雄の言い方を借りれば、「彼は岩屋のそとの急流や、意外なところにある窪みに入ることを避けて、大正から昭和の大転換期の、時代の急流や淀みに入ることをおそれて、身体は安全な場所におさめておいて外界をのぞき見することだけを好んだ、という存在として、魚と人間が重ねあわされる」[8]と述べている。彼が指摘した?急流?は当時の文壇ほかならない。昭和文学の始まりであった当時は、「太宰の言うで『これからは、このような作品が解らぬと、文学を語る資格がない』と言った気負った未熟な試みが、ジャーナリズムを風靡し、作者も読者も、それに巻き込まれた時代と言えませう」[9]。

文壇へ進出した後、世俗一流の道に反撥するところから出発した井伏は、長い間無名作家として平板な生活を送っていた。彼の独自の作風が理解され、認められるまでには、かなりの年月を要したからである。井伏は韜晦しながら、矛盾の渦の中に自分の進路の瞑想に耽っていた。そういう時代の空気の中で、井伏は、文学の領域における、自分を作家として生かす道を見出して、一定の成果をおさめたい気持ちと、時代の波を追って当時の既成流派に屈従しない思想とが、内面で火花を散らしていたことは容易に推察できる。これも、「山椒魚」を発表する際、「幽閉」を改題し、末尾に加筆した原因である。今日私達が目にする「山椒魚」は「幽閉」とは長さ、用語、用字、文体などがはなはだしく違う。最も著しい相違点は蛙の登場である。「幽閉」には、蛙が登場しないが、外界から絶縁された山椒魚の感傷的な独白である。蛙の登場と両者の対話により、山椒魚の内面世界や性格についての表現はいっそう深まり、作者の意図も明らかになり、「幽閉」から「山椒魚」へ質的な飛躍を遂げた。それだけではなく、前文に述べたように、作家の内心の矛盾をも表現できた。

以上のことから見れば、井伏は山椒魚の矛盾な内心を通して、当時の自分の内面の矛盾や足掻きを表したと言える。井伏は山椒魚と同じように、自分を現世より遠い「内心の岩屋」に閉じ込まれた。その矛盾の心情は、彼の自分の持ち場を限定して、個性を保つ理由であり、また、世俗の文壇とを隔絶する「コロップの栓」である。

2 山椒魚と他の動物との関係及びその寓意

A 山椒魚と蛙

この短編で、蛙は二箇所で現れている。一箇所は山椒魚が出入り口から眺める視野の中に入った蛙であり、もう一箇所は、前文に述べたように、岩屋にまぎれこんだ蛙である。前者は自由なものであり、山椒魚はそれなどの「活発な動作と光景とを感激の瞳で眺めていたが、やがて彼は自分を感激させるものから、寧ろ目を避けたほうがいい」と感じさせる存在だった。それは羨望心か、嫉妬心か、或いは不満な気持ちか、いずれにしても、悲しんだ山椒魚をもっと悲しい世界に導いた。

それに対して、後者は、山椒魚にとっては、意味深いものである。前章の「山椒魚の内心の矛盾」や?井伏が『幽閉』を加筆改稿した?というところで既に触れたが、ここでは、さらに詳しく分析してみたい。

山椒魚が蛙と一緒に暮らした二年の間に、両者の関係は、それぞれの内心活動の変化とともに、変わっていった。時期に分けると、大きく「対抗」、?沈黙?、「和解」という三つの部分に分けられる。

そのうちの、?対抗?の時期は最も面白くて意味深い部分である。?そこで、山椒魚の孤独は滑稽化され、彼と蛙との争いは、当事者たちが真剣であり、両者の境遇が絶望的であればあるほど、読者の失笑を誘います?[10]と中村光夫は評している。実際は、山椒魚と蛙の口論を細かく味わえば、人間社会における人間関係の影が見て取れる。作家がその争いを描写するのは、単なる読者の失笑を誘うためではないだろう。井伏の内面の矛盾を表すほかには、社会における人々の心理状態に対する啓示と風刺も含まれるだろう。人生の低潮あるいは逆境に遭っても、弱音を吐かず、力を奮って困難を克服する人は畢竟、多くはない。多数の人は、自分にも、世の中にも、憎しみの声が道に満ちて、他人の成功には、嫉妬のこもった眼差しで見つめている。もし他人は自分と同じ状況に陥れば、すぐ勝者の姿勢で皮肉を言ったり、嘲笑したりするに違いない。それらが共通の運命の中でいがみ合う姿は想像しやすい。勿論、山椒魚を完全に悪党と見なすのは少し過激だが、彼の行為は現世の人々の不可解な心理の一面の反映ということも疑う余地がないだろう。

次は「沈黙」の時期である。この時期は両者の関係の過渡期とも言える。井伏は極めて少ない文字を使ったが、表すべき内容をすべて表した。「更に一年の月日が過ぎた。二個の鉱物は、再び二個の生物に変化した。けれど彼等は、今年の夏はお互いに黙り込んで、そしてお互いに自分の嘆息が相手に聞こえないように注意していたのである」。この「黙り込んだ」ことは、彼らの激しい口論よりも意味を持っている。もし喧嘩を彼らが互いに風刺して、内面の絶望を覆い隠す手段とすれば、沈黙は彼らがその際限のない絶望への無言の訴えることに違いない。それも彼らにとって対抗から和解へと転換する欠かせない過程である。

最後の「和解」の部分は、この短編の中で、読者を惜しませる部分である。敵対する気持ちの消失とともに、彼らの間に素直な友情が生じてきた。試験的に蛙の気持ちを探る山椒魚と深い嘆息をしながら「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」と答えた蛙は、本質は、どちらも善良にして可憐なのである。作者が両者の善良やどうにもならない心境を描くのは、単なる読者の同情を誘おうとするだけではなく、自分の内面の矛盾に対しても、最も適合の結末で終わらせるのは明らかである。その「友情を覚えるという筋は、時流に近づき、そこで、才華にものをいわせようとする自身の野心なり、焦慮なり内面の体験と照応しているのではないか」[11]と関良一は指摘している。確かにそのとおりである。

B 山椒魚と小蝦

小蝦の登場は、蛙よりも早い。ある夜、一匹の「産卵期のまつただなかにあるらしい」小蝦は、岩屋のなかに紛れ込んで、山椒魚の横腹を岩石だと思っていた。山椒魚は、小蝦が自分の横腹に何をしているのか、「振り向いて見てやりたい衝動を覚えたが、彼は我慢した」。「ほんの少しでも彼が体を動かせば、この小動物は驚いて逃げ去ってしまったであろう」からである。以上から見れば、来客の第一人者の小蝦に対して、山椒魚は敵視する態度というよりは、寧ろ傍観する気持ちを持っていたと言ったほうがいい。なんとなく好奇心があったのだろう。しかし、それはただ一瞬のことである。間もなく山椒魚は小蝦を「みもちの蟲けら同然のやつ」と称して、さらに「くった苦したり物思いに耽ったりするやつは、莫迦だよ」と得意げに言った。彼の目では、小蝦は力弱くて何でもできない微小なもので、岩屋に落ちる前は自由なものであっても、小さくて話にならないやつである。岩屋に紛れ込んだ後、「そこに卵を産みつけていたに相違ない」、外に出るための努力を全然しない小蝦を、山椒魚は役に立たないやつだと思い、「莫迦だ」と嘲笑した。小蝦の平気な態度が山椒魚の「決心」を一層促したのは言うまでもない。しかし、小蝦も山椒魚の失敗の狼狽の姿の目撃者となった。「全く小蝦くらい濁った水の中でよく笑う生物はいないのである」のである。

実は、この小蝦の役も井伏が心を込めて設計したものである。この存在のおかげで、山椒魚は人間性を持ったといっても過言ではない。彼らの世界を人間社会とすれば、岩屋に落ちてもそれを棲家として生きていく平気な心を持つ小蝦は、その社会における取るに足らない人物である。このようなものの前で、自分は頗る優越性を有すると山椒魚は思ったのだろう。弱者の前で、強者のふりをして、自分をも他人をも騙す心理は、人間社会によく見られるものだろう。しかし、そのような自己満足感は長くは続かない。小蝦の前で失敗した山椒魚は絶望の深淵に一歩近づいた。前章で、井伏の無名な作家としての時期を述べたが、この小蝦と山椒魚の部分もその頃の井伏の境遇や心理の反映だろう。世俗文学流派を一顧に値しなかった井伏は、自分の個性を固く守っていたが、世に認められないという運命からは逃げられなかったのである。井伏のこの気高さは、山椒魚に託して表されているのではないだろうか。

C 目高について

目高は山椒魚が外を眺める視野の中に入った小魚達である。彼らは「互いに流れに押し流されまいと努力し」て、なかの一匹が「誤って左によろめくと、他の多くのものは他のものに後れまいとして一せいに左によろめ」き、逆の場合も、「ここを先途と右によろめいた」。それゆえ、「彼らのうちのある一匹だけが、他の多くの仲間から自由に遁走して行くことは甚だ困難である」。山椒魚は目高を「なんという不自由千万な奴等であろう」と嘲笑した。彼らの不自由と比べれば、自分の「不自由」はより安全である。少なくとも、他人の間違いによって「藻の茎に邪魔され」る危険がないのである。実は、この目高達の行為を集団意識の表現だと言う意見を持つ人もいるかもしれないが、それは推敲に堪えられない見解である。もし、盲従を集団意識とすれば、「集団」の内包をゆがめるだけではなく、作者の創作意図をも誤解したのである。目高を「不自由な奴」と言うのは、根もないことではない。いい悪いの区別なく、盲従することそのものは不自由の表現である。それゆえ、目高達は表面から見れば、自由な動物であるが、実質には、山椒魚と同じに、体も心も不自由なものである。この目高たちの描写は、世俗の人間像の反映に相違ない。人間社会では、目高のような他人に盲従する人は千万に止まらないだろう。自分の人生を他人にあやつられ、いつも他人の後に付き従う人は悲しむべき存在である。当時、左翼化して行われていた同世代の文学青年たちや早大のトルストイズム[12]の流行の歩みを追った学生達はすべて人間社会の「目高」ではないだろうか。これまでの分析を通し、作者の意図が明確になった。目高達は、自我を持っていない文壇作家や文学青年に対する風刺に違いない。

以上は「山椒魚」の主役の小動物達に対する理解と分析である。「山椒魚というやや図体の大きい、もともとグロテスクで滑稽でもある魚のイメージにふさわしいそういう存在の悲しく滑稽な姿、その孤独と、悔恨と、罰の恐ろしさと、善良さと、すべてこれらが谷川の中に細かく観察された銭苔や水流や小魚や蛙やの鮮やかな描写とともに、批判や哀憐とを込めて簡潔正確の語られ、作者そのままではないが作者自身のなかに生きている一つの分身が生き生きと現れてきて、韜晦しながら韜晦の惨めさ悲しさを鋭く覗き込むところにこの作品が成立しえたことを示している」[13]と小田切秀雄が指摘した。要約してみると、作者は主人公の山椒魚と化し、岩屋や外の世界を人間世界と喩え、自分の内面の矛盾や不安を徹底的に分析したり、社会における様々な人間像に対する風刺と暴露したりしており、彼の出世作はもともと批判的な作品である。


四 小動物の世界から見た井伏鱒二の思想と創作特色

実は、このような「動物の世界で見究めた生命の原型を人間のあいだで生かす」[14]創作方法は、井伏の他の初期作品の中でも用いられた。「鯉」と「屋根の上のサワン」はその代表的作品である。

「鯉」は親友の青木南八への感慨を一匹の白い鯉に託して表現した詩情豊な作品である。青木からもらった鯉の放つ場所の転換や青木南八の死をめぐって書かれている。出てくる小動物は鯉である。また、「屋根の上のサワン」では、?私?が負傷の雁の治療にとりかかり、完治した後も「サワン」と名づけ、雁の両方の翼を羽根だけ短く切って、庭で放飼いにすることにしたが、縛られてから毎夜屋根の頂上に立って悲鳴した雁は、最後には?私?の「監禁」から逃げ出して、「彼の季節むきの旅行に出て行ってしまった」という話である。

一般的には、鯉を青木との友情の象徴とする評論家達は傷付いたサワンを「都会の貧しい生活者の自然への郷愁」或いは「生活不安の中で生じた孤独感」の象徴と見なす。当然、こういうような寓意を持っている鯉もサワンも、自由の有無は重要な問題ではないが、仮に主人公である「私」を無視して、彼らを井伏文学の小動物世界に置くと、別の寓意も感じ取れる。

「屋根の上のサワン」の冒頭部には、井伏は主人公の身分を「ある少女」と設定している。実は、文章の中の細部描写から見ても「私」の身分を推定することはできる。雁を心を込めて治療をし、「サワン」と名付け、そして親切に世話をする「私」は、絶対にそそっかしい男ではないだろう。淡々と憂鬱な気質を持っている、一人暮らしの孤独な少女にほかならない。彼女にとって、雁の到来は、彼女の孤独や悩みをまぎらすための最も良い機会だった。しかし、「サワン」は、?私?の世界に束縛されることには、必死に反抗した。自分の属する世界に戻ろうという志は、束縛されれば束縛されるほど、確固となっていった。それに対して、?私?は逃げようとする「サワン」の「薄情」な振舞を防ぐために、「三日かかっても食べきれないほど多量な餌」をやるだけである。以上から見ると、幽閉される?サワン?の自由への憧憬は、山椒魚の岩屋から脱出しようという決心ほど弱くないだろう。そして、「私」が雁に対する強い依存感を言い換えればある形式の友情とも言える。

それでは、「山椒魚」における主役の山椒魚と蛙との付き合いの過程を、以上のものと比較してみると、井伏の作品における小動物の世界に共通する箇所が見えてくる。図で示すと次の通りである。


以上のグラフによって、両篇の共通点がはっきり見られる。

次の表は二篇の共通点の表現である。

かなめは不自由の問題である。両方の翼を羽根だけ短く切られ、束縛された?サワン?の不自由ははっきり見て取れるが、友情の象徴としての鯉の不自由はどこからも見て取れないのではないかという疑問が読者たちにあるかもしれない。鯉の放つ場を振り返ってみよう。「下宿の中庭に瓢箪の形した池」から青木の愛人の家での「枇杷の枝のさしかかっている池」へ、またそこから「早稲田大学のプール」へと、鯉の運命は「私」に操縦され、何かと不自由なものとも言えるのだろう。

以上の三篇の表現方法の一致は偶然なことではない。それでは、なぜ井伏が初期の作品で小動物の姿はこんなにしげしげと現れたかは研究すべき問題だと思う。つまり、井伏は人物の描写を捨てて、無言の動物たちの身ぶりを通じて表すという彼の個性的独創の原因は何だろう。実は、この三篇の動物を扱った小説を拾って行くと、一つの重要な特色が見つかりやすい。それは、「山椒魚がもとより、鯉も、サワンと名付けられた雁もみな実在するはずのない架空の動物です。その生きる場所は作者の心のほかにない」[15]。人間の性格形成期が少年時代と言われるので、この「作者の心」を究めようとすれば、まず井伏の成長の歩みを振り返る必要がある。

幼年時代、病弱の井伏は早年父親が死なれて、祖父に大事に育てられ、毎年鞆の津の仙醉島に保養に行ったのである。あそこで、風光明媚で穏やかな内海の姿が彼の頭の中に深く印象が残った。また、小学校の井伏は、遊んでばかりいたらしく、大自然に親しく触れた経験も、彼の自然万物に対する親近感に繋がるに違いない。それ故に、井伏が幼、少年時代に馴れ親しんだ郷土の風物、人情が彼の作品の中に描かれるのは当然なことだろう。

一方、「山椒魚」の創作背景を顧みてみよう。そういう時代における井伏は、当時の大部分の作家[16]とは違い、自分の描いた自然が実在するかどうかを問わず、主旨を表す必要によって、勝手に書く個性を持っていたのである。たぶん、彼の考えでは、お喋りをしない生命しか信じなかったかもしれない。彼は傍観者としての位置に身を置いて、冷静な目で小動物たちを見ながら、読者にその無論理な世界における実感を持っている腥い生命の存在を少しずつ展示している。それ故、「読者は岩屋にこすれる山椒魚の肌のぬめりを感じ、無花果の葉の下で口を開閉して安息な呼吸をする一尺の長さで真っ白い色をした鯉を見、短く切られた翼で屋上にはばたくサワンの鳴き声を聞き」[17]、頗る共鳴が引き起こされる。とにかく、井伏が描いた無論理の世界に生きる論理的な動物たちは、彼等の意識、希求、情感などを持って、井伏の心の底にも、読者の心の底にも生き生きと存在している。その事実はだれも否認できないのである。

おわりに

本論は、井伏鱒二の初期作品における小動物世界を研究対象とし、「山椒魚」を中心に、作者の創作意図や創作特色を初歩的にまとめた。彼が自分の人生や社会に対する態度を非人間社会に託して、無言の小動物たちの姿で内面の矛盾や足掻きを表し、そして人間社会の世態人情を反映して風刺するという結論を得た。また、「山椒魚」と「屋根の上のサワン」との比較分析を通じて、井伏の「動物の世界で見究めた生命の原型を人間のあいだで生かす」という創作特色の形成する原因を二つの方面から初歩的に分析した。一つは少年時代の大自然に対する親近感であり、もう一つは井伏が文学創作に対する独特な見解である。

本論の研究範囲は比較的に狭いので、井伏鱒二の文学の特色を全般的に分析することには力不足である。また、「彼の厖大な著作に冠せられた序文」としての「山椒魚」の「序文」と言う役割を研究するためには、彼が世に認められた後書いた数多くの作品を細かく鑑賞し、彼の文学作品に貫く特色を求める必要がある。井伏は、長編の『ジョン万次郎漂流記』で直木賞を、また『本日休診』で第一回読売文学賞を受けている。原爆文学としての『黒い雨』も世を挙げて有名である。約四十年にわたる井伏鱒二の業績を見ると、なんという豊かな天分に恵まれた芸域の広い作家であると感嘆を久しくする。それらの作品は私がこれからやり続ける課題の対象だと思う。

 

参考文献

1『日本文学研究資料叢書井伏鱒二?深沢七郎』 有精堂 1977年11月10日

2 『現代日本文学史』. 吉田精一 筑摩書房         1969年12月25日

3 『現代日本文学全集 井伏鱒二集』筑摩書房  1953年12月20日

4 『井伏鳟二小说选』  柯毅文译  外国文学出版社 1982年3月

5 『現代日本文学史 下巻』 小田切秀雄 集英社 1975年12月5日

6 『日本文学小辞典』 新潮出版社               1980年3月20日

7 『日本の文学 井伏鱒二』 中央公論社            1979年3月15日

8 『日本の現代小説』 中村光夫  岩波新書      1977年10月20日

9 『昭和文学の成立』 小田切進  劲草書房        1977年6月1日

10 《契诃夫文集》 汝龙译  上海译文出版社      1989年6月

感 謝



[1] 蘭軒の生涯を中心にその前後を編年体で記述している読み物である。新羅三郎義光より武田信玄を経て、旗本伊沢となった起りや(甲府の石和温泉を思い浮かべる)、その後の伊沢諸分家の流れを記述するというスタイルだ。福山藩の医官であり儒官であった江戸の蘭軒と、福山藩神辺在住の菅茶山との交流を中心に編年体で経過を追っているが、時には痘科の大家?池田京水を詳述し、狩谷棭斎、松崎慊堂にも筆が及ぶ。弟子の渋江抽斎?森枳園も描かれる。さらに後半の三分の一は蘭軒の息子、榛軒?柏軒の二兄弟、及び榛軒の養子棠軒についての事跡?家族も記述される。福山藩の北条霞亭や関藤藤陰にも触れる。初出:「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」1916(大正5)年6月~1917(大正6)年9月。

[2] 『伊沢蘭軒』に登場する阿部正弘は、十九歳で譜代大名の名門福山藩主となり幕府の老中首座にまで出世した。福山ではヒーローである。だが数え三十九歳で若死にする。政敵の井伊直弼の意を受けた蘭軒がその息子に命じて阿部正弘を毒殺したとの流言が行き渡っていた。そこで井伏は友人の森政保と「森鴎外は伊沢蘭軒一派が阿部正弘公を毒殺したことを知らないんじゃないのか」と思って、手紙を書いた。

[3] 新潮出版社の『日本文学小辞典』による。伊藤整、川端康成、瀬沼樹、中村光夫、久松潜一、平野謙、山本健吉、吉田精一編集。

[4] チェホフの短編小説。?自由?と?幽閉?に関する物語り。ある銀行家が自分の家でパーティを開いた。彼らは死刑や無期懲役の区別について論争していた。偶然のことで銀行家がある法学者の若者と賭けをした。法学者が彼の庭の中の小部屋に閉じ困れ、厳しく監視され、外界とは全然連絡できない。自分の要求を紙に書いたあと、小さな窓から外の召使に伝える。しかし、話し合うことは禁止される。この状態でもし法学家が十五年間の間ずっと我慢できれば、銀行家が彼に二百万を払う。小部屋に監禁される十五年間、法学家がいろいろなことを経験した。初めの五、六年は、彼は長篇小説やお酒、音楽など夢中になった。年月の経つに従え、彼の心底には寂しさや絶望が浮かんできた。それと同時に、彼は各種類の本を読んだ。外国語にしても、哲学にしても、歴史にしても、宗教に関わる本もあった。彼は人間について細かく研究し、自由が奪われた状態で人間社会の色々な言論、行為、人々が推賞する道徳規範などについて蔑視する思想が生じてきた。彼は人間社会のすべてのものを、自由や金銭をも見下げて、「幽閉」から悟った。終わりの処で、彼は最後の日その「牢屋」から逃げた。

[5] 関良一 ?山椒魚? 『日本文学研究資料叢書 井伏鱒二.深沢七郎』 P121 有精堂  1977。

[6] 原文の引用はいずれも築摩書房の『現代日本文学全集 井伏鱒二集』による。

[7]  河上徹太郎『井伏鱒二集』解説 P431、築摩書房   1953。

[8] 小田切秀雄『現代日本文学史 下巻』P404、集英社   1975。

[9] 中村光夫「井伏鱒二論」、『日本文学研究資料叢書 井伏鱒二?深沢七郎』P46、有精堂  1977。

[10] 中村光夫「井伏鱒二論」、『日本文学研究資料叢書 井伏鱒二?深沢七郎』P46、有精堂 1977。

[11] 関良一  ?山椒魚?、『日本文学研究資料叢書 井伏鱒二?深沢七郎』 P136、有精堂 1977。

[12]トルストイはロシヤの文豪であり、小説「戦争と平和」、?復活?、「アンナ?カレーニナ」、「クロイツェル?ソナタ」などがある。トルストイズムは彼の生活や文学に現れた思想傾向。キリスト教的人類愛、自然への復帰、暴力による悪への無抵抗を主とする。日本では、キリスト教的ヒューマニズム(人道主義)として白樺派の人々に強い影響を与えた。

[13]小田切秀雄『現代日本文学史 下巻』P405、集英社  1975。

[14] 中村光夫「井伏鱒二論」、『日本文学研究資料叢書 井伏鱒二?深沢七郎』P50、有精堂 1977。

[15] 中村光夫「井伏鱒二論」、『日本文学研究資料叢書 井伏鱒二?深沢七郎』P48、有精堂  1977。

[16] 当時の作家にとって、自然はただ観察し、描写すべき外界の対象である。

[17] 中村光夫「井伏鱒二論」、『日本文学研究資料叢書 井伏鱒二?深沢七郎』P49、有精堂  1977。

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