皆さん、こんばんわ。
これからの話はどうも自分のことですが、つまらないことけれども、しばらくお耳を拝借(はいしゃく)したいと思います。
そもそも人間は、とっても影響されやすいですね、子供時代からまず両親、周りの友達も、自分自身の性格を影響しながら、ようやく形成しまいました。つまり、自分にとって、一番影響を与える人なんか、ないと思います、私に影響を与えた人は数人もいます。
まずは、私のお母さん。幼い時の記憶は次第に薄くなってきましたけれども、このことはなお はっきり覚えます。私は7歳くらいの時、食事を終わってレストランを出ていた時、正門前にある乞食(こじき)が見ました、ボロボロの服をかけて、可愛そうな目を私に見た。彼に同情を引いた私が、自分にとって、一元の大金を渡しました。それを、お母さんに見つかった、いきなり私をしっかりしかりました、「どうしてお金をそんな人やるの?乞食は普通の人よりお金をもっているかもしれないよ、バカだけお金を渡します。」って、何も知りませんの私が、それから、乞食にお金をぜんぜん上げません、どんなに可愛そうな街頭乞食も、ぜんぜん。それを習慣として、もう慣れました。
つい、この間まで、冷たいと言われていた、私が冷たいの私を発見しました。 ある日、ボーイフレンドとドライブをしていて、信号が赤になって、私たちの車を止めたました。ある中学生みたいな女の子、手に「助けってもらおう、お金をくれませんか」って書いた手紙が持って、私たちのほうに来ました、彼は、小額の金を上げているところを、「やめろ」って、彼に叫びました、「乞食が皆詐欺師(さぎし)だよ、分からないか?乞食はたくさんお金をもっているかもね!」と言いました。結局、お金を渡しませんでした。
私とボーイフレンドも、10分ぐらい、黙りました。つい、彼は「だんであなたはそんなに冷たいだろう?もしあの子は本当にお金を非常に必要したら、どうでしたか?ただ、子供じゃないの?」って言いました。
私のこころは、幼い頃の同情心を再び、引いていました。私は冷たいなのか、つい、知りました、悔しい気持ちが湧いている。このボーイフレンドも、深く影響が私に与えました。
以上
第二篇:日语演讲比赛演讲稿
今、私にできること去年の三月に、ミクシィのコンミュニティで七尾歩という日本人と出会いました。歩さんは大阪の出身で、今小さな日中貿易系の会社を経営しています。仕事柄中国語を使う場合が多いそうです。わたしも日本語を勉強したいと思っていましたから、歩さんとお互いの言語を教えあうことにしました。交流を始めた当初、歩さんはちっとも中国語を話せませんでした。最初は「你好」、「谢谢」などのコミュニケーションを取ることもまったくできなかったのですが、毎日のわたしとの学習で、中国語を少しずつ学んでいきました。そして、わたしがどんな日本語の質問をしても、いつもゆっくり、やさしく根気よく説明してくれました。そのお陰で日本語をしっかりと学習でき、わたしの日本語もかなり上達してきました。日本語が上手と言われるたびに、なんだか心からものすごく勇気がわいてくるような気がします、もうひと踏ん張りをしなきゃ!、と決心しました。しかし、最初、歩さんの中国語学習はそううまくはいきませんでした、勉強の間、彼は何度も私を戸惑わせるのです。「なんで中国語はそんなに難しいんだよ!」「ピンインの第二声と第三音はぜんぜん区別ないじゃないのか」「もう年寄りだから頭に入らないよ、さっきまでは覚えてるのに、瞬く間に忘れちゃって、もういやになっちゃうよ」……正直言うと、根気よく教えることはとても大変で、たまにやる気が失せてしまって落ち込んだりもします。しかし、すこし考えてみると、その時の歩さんは、日本語を勉強し始めたばかりのころの私と同じじゃないですか。その時の私も、日本語がやけに難しいと思っていました。カタカナにひらがなに漢字まであって大変なんです。わたしの苦情には、日本で中国語を学んでいる日本人と共通するものがありました。教えるということは実は教えられること。お互いに学ぶことで、お互いもっと近づくことができる。相手の国のことを知りたい、もっと深く理解したい、単語や文法を覚えるのはつらくても、あきらめないで、楽しく勉強を続けていることが学習の醍醐味だと、やっと気づきました「貿易系の仕事だから、少しでも仕事に役立てたい」。最初そういう目的を抱いていた歩さんは中国語を学習するにしたがって、「面白半分で勉強したけど、中国語は案外面白いね、早く中国人と会話できるようになりなぁ」というような態度に変わりました。そしてわたし
も大変やりがいを感じるようになりました。中国と日本は同文同種、一衣帯水の隣国ですが、はやり意識と思想はかなり違います。そして、一人一人にも違うところがたくさんあって、好みもたくさんあると思います。じゃ、どうすれば、その食い違いの壁をのり越えるのでしょうか?東日本大震災の後、ACジャパンの「今、わたしにできること」といった被災地応援のコマーシャルを見ました。そしてわたしはそのコマーシャルに大変感動しました。「心は見えないけれど、心遣いは見える、思いは見えないけれど、思いやりは見える」との言葉も印象的です。震災後、中国からも、日本に、東北にあたたかい応援が届けられています。この震災が起きて、何ができないか、と思い、日本語学部の仲間たちに声をかけました。あっという間に、熱い仲間が集まってくれました。そして被災地への応援歌を歌いました。その歌をカメラで記録して、被災地に届けました。私たちはこの震災で被災された皆様にお見舞い申し上げます、そしてなくなられてしまった皆様にも、心に、ご冥福をお祈りいたします中国でも、日本でも、ちょっとした「こころづかい」や「思いやり」が、周りの人の「こころ」に、ほのぼのとした光りをともすのではないでしょうか。その心遣いや思いやりがこそ、中日両国間の壁を取り払うものなんだと思います。中国の偉大な作家である魯迅は、かつて日本に留学し、そこで藤野先生をはじめとする多くの日本人と出会いました。このような出会いは、その後の中国の変化に大きな影響を与えたに違いありません。実際に、私たちと魯迅先生は同じです、日本語と日本文化の学習により、数え切れないほどの収穫を得たのです。魯迅は、その作品『故郷』の中で、次のように書いています。 「思うに希望とは地上の道のようなものである、もともと地上には道はない、歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」 皆さん、今私たちにできることは、共に歩き、共に道を造り、共に未来を創り上げていこうではありませんかご静聴 ありがとうございます