SOSを見てから
『SOS』というドラマを見たことがあるでしょう。この間結構流行したドラマです。この中に、ひとつ心理テストみたいな問題が出しました。「柔らかいクリームケーキの上に、あなたが一番好きなイチゴがあります。さて、あなたはどこから食べますか。」という問題です。
そして、友達に聞かれました。私はイチゴにはそんなに好きではないけど、でも大好きだとして、答えはケーキでした。「好きだから最後。」と思いました。友達の解釈はこうになります。「好きな人よりも、愛されるのがほしいタイプだ。愛に対して、とても受けみな人だ。いっぱい愛されて、大変うれしいことだけど、相手に傷つ
けるじゃないですか。それに、自分も負担になっちゃうから。」と。 そうですね、受身な性格を持っている私にとって、どうしようもないことです。実は、私にもよくわかりません。今まで、好きな人はまだいないだけど、もしいるとしたら、「あいしてる」っていえるのかなあ。好きな人が自分のことも好きになれる何で、非常に難しいことだと思います。いや、難しいというよりも、むしろ貴重で、めったにないことでしょう。人間はそんなに矛盾な存在を実感しました。
『SOS』はドラマの名前で、完全な形の名称はstrawberry on the shortcakeです。もともと「SOS」とは「助けてくれ」という意味で、では、なぜ助けなければならないかという問題も入っていました。たぶんさびしくって、さびしくって、もう我慢できないぐらいでしょう。
「だから、君のこと忘れないよ。」という話は何回も出てきました。青春期の少年少女の純粋な恋をきちんと伝えました。「だから、君のこと忘れないよ、たとえ僕のことをたやすく忘れたとしても……」
第二篇:日语综合教程第六册第一课读后感
【まあまあ】にみる日本人の心
「まあ」という慣用語は、いろいろな場合にいろいろな形で使われ、その間には微妙な意味の濃淡がある。更に「まあ」を二つ重ねて「まあまあ」となると、厳密に意味を分析できない表現になる。例えば、「まあまあ」には、「試験は、まあまあだった。」というような「程度」を表す表現があるが、これは試験のできばえの程度を客観的?数量的に示す言葉ではない。結局、そこには言語使用者の主観的な判断しかないことになるが、幾つかの具体的例を検討することによって、日本人一般に当てはまる、共通の精神的特徴を抽出することができる。
先ず、「まあまあ」には相手との関係で己を抑制する心が隠されているということである。それは、こじんまりした島(日本三景のイメージ)で対人関係を円滑に運ぶ日本人の知恵であった。物事をあかたさまに主張するよりも、相手との人間関係を考えれば「まあまあ」の方が差し障りが少なくてすむからである。
更に、もう一点、上記のことともかかわるが、「まあまあ」で物事に対する自分の期待の大きさを抑制するということがある。楽観主義ばかりでは期待はとどまることを知らない。大山名人の言うように、それに流されず、ブレーキをかけようとする心(悲観主義)がある。
結果として、これは専ら自己に対する負担を軽減する手段ともなる。大きな期待があるところでの、小さな現実は、不満と失望だけを生みやすい。楽観的な期待を悲観主義によってコントロールする「まあまあ」には、自分の期待の大きさを現実に合わせてぼかし(あるいは最悪の場合を想定して抑制し)、その結果に自分なりの小さな満足を得る余地を残したい、という精神があるということになる。
「まあまあ」使用の裏にある、二つの精神的特徴は、日本人の基本的な精神構造の一端を鋭く映り出しているのである。