日语议论文阅读技巧
作者:琥珀の雫 文章来源:日语阅读 点击数: 959 更新时间:2009-5-28
世間では、いま、表現ということが盛んに叫ばれている。子供たちにどうにかして、「豊かな表現力」「誰とでも話せるコミュニケーション能力」を身につけさせようと、親も教師も躍起になっている。子供のほうから見れば、表現を強要されているとさえ言える状態だ。
だがどうも、教える側も、子供たちの方も、「表現」ということを無前提に考えすぎていないか?
いや、いったい、何をそんなに伝えたいと言うのか?
私はここ数年、演劇のワークショップ(体験型の演劇教室)を、年間で百コマ以上、全国で繰り返して開催してきた。教育の門外漢に、このような依頼が殺到するのも、表現教育隆盛の一つの現れであろう。
ただ、私が、そういった場で子供たちに感じ取ってもらいたいことは、表現の技術よりも、「他者と出会うことの難しさ」だった。どうすればコミュニケーション能力が高まるかではなく、自分の言葉が他者に通じないという痛切な経験を、まず第一にしてもらいたいと考えてきた。
高校演劇の指導などで全国を回っているといつも感じるのは、生徒創作の作品のそのいずれもが、自分の主張がたしゃに「伝わる」ということを前提として書かれている点だ。
私は、創作を心さす若い世代に、演劇を創るということは、ラブレターを書くようなものだと説明する。「俺は、お前のことがこんなに好きなのに、お前はどうして俺のことが分かってくれないんだ」という地点から、私たちの表現は出発する。分かり合えるのなら、ラブレターなんて書く必要はないではないか。
日本はもともと、流動性の低い社会の中で、「分かり合う文化」を形成してきた。誰もが知り合いで、同じような価値観を持っているのならば、お互いがお互いの気持ちを察知して、小さな共同体がうまくやっていくための言葉が発達するのは当然のことだ。それは日本文化の特徴であり、それ自体は、卑下すべきことではない。
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